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戦国時代②〜西日本の主な戦国大名一覧

  • 2020年5月18日
  • 2020年5月18日
  • 日本史

主な戦国大名の紹介、後半戦です。

前回も言ったように、どんな人物かはなんとなく知っていてほしいけれど、受験的に大事かどうかだとそこままではないところ。

簡単に紹介していくので、軽い気持ちで読み進めてください。さっそくいきましょう。

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西日本の主な戦国大名

  • [越前]朝倉孝景:『朝倉孝景条々』
  • [近江]浅井長政
  • [近江]六角義治:『六角氏式目』
  • [周防]大内義隆:『大内家壁書』
  • [周防]毛利元就
  • [讃岐]三好長慶:『新加制式』
  • [讃岐]長宗我部元親:『長宗我部元親百箇条』
  • [豊後]大友義鎮
  • [肥後]相良氏:『相良氏法度』
  • [薩摩]島津貴久

朝倉孝景

続いては越前国、今の福井県にいた朝倉孝景(たかかげ)です。名前だけはすでに加賀の一向一揆のところで出しました。蓮如を助けた人物です。

その頃の人なので、戦国大名1号である北条早雲よりもさらに前の人です。もともと室町幕府から守護に任命されていたので、戦国大名にはあまりカウントされません。

でも、戦国大名魂を最初に表したのがこの人でした。彼が作った分国法『朝倉孝景条々』の第1条には、家柄とかではなく実力主義で家臣の順番を決めろよってことが書かれています。

この分国法、別名を『朝倉敏景17箇条』と言います。これが出るまでの日本人の基本原理は、聖徳太子の憲法17条でした。同じ17条ですね。

こちらで最初に書かれていたことは「和を大事にしろ」。

「みんな仲良くしろ」から「実力で順位をつけろ」へと、ここまでの基本原理をひっくり返し、戦国時代という競争社会の扉を開いたのがこの朝倉孝景なのです。

ぜひ「戦国大名0(ゼロ)」としてこの朝倉孝景を覚えておいてください。この人がいた「一乗谷」という場所について、また次次回に触れますね。

浅井長政

近江国の北部にいたのが浅井長政です。もともとジイさんが京極家から独立を果たし、でもパパが次の六角氏に屈し、この長政が再度独立を勝ち取るという流れで戦国大名になりました。

後に織田信長と同盟を結び、信長の妹であるお市(おいち)を奥さんにします。でも結局は信長と戦うことになるんですが、それは信長のところで話しましょう。ちなみに、読み方は「あざい」です。

六角義治

浅井氏と近江の国を分けていたのが六角氏。信長が活躍した時代は六角義治(ろっかくよしはる)が当主でした。

でも、実際は隠居したパパの義賢(よしかた)が実験を握っている状態です。

信長の話を読むと六角氏の話もよく出てくるのですが、本や記事によって下の名前が異なっています。それは上のような理由です。名目上のトップで言うか、実質的なトップで言うか。

リーダーなのに、引退したパパがうるさくてその名前が曖昧になるのって、かわいそうだよね。

でも実際に義賢(パパ)がいなくなると、六角氏は内部分裂します。

その結果、義治はトップなのに権力を振り回せないような約束を家臣たちにさせられました。いばってんじゃねえよ、と。

それが『六角氏式目』。他の分国法が大名が国を統治するために作った法なのに、これだけは大名の権力を制限するものだってのが特徴です。マジうける。

毛利元就

では現在の中国地方にいきましょう。こちらにはざっくり3人の大名がいました。東から順番に尼子氏・毛利氏・大内氏です。ここで毛利元就(もうりもとなり)が勝ち抜きました。

ただ、最初は全然違って、むしろ尼子さんと大内さんが超強く、間に弱い毛利が挟まれてピャーピャー泣いていたというのが戦国時代がスタートしたときの状況。

そこから調略の天才であった元就が、わずか1代で大逆転をしたのです。調略(ちょうりゃく)ってのは、相手方の重要人物を買収したりハメたりして内部崩壊させていくこと。

良く言えば可能な限り戦わないで勝つ戦略の天才、悪く言えば嫌なヤツ。スゴい人だったことは間違いないですが、好みは分かれるでしょうね。

自分がそうやって勝ち上がってきたからこそ、今度は自分たちがチームワークを大事にしなきゃいけないと思って子どもたちに説いたと言われるのが『3本の矢』の話です。

「矢も1本だけではすぐ折れちゃうけど、3本が束になったら簡単には折れないよな。だから団結しろ」というお話。

3つの矢(イタリア語で「フレッチェ」)がサッカーチームのサンフレッチェ広島の由来ですね。

ちなみに、強くあるためには金が必要という話をさっきしましたね。超強かった毛利元就も、もちろん金を持っていました。それは石見大森銀山という銀山を持っていたからです。

この銀山は当時世界で最も銀が採れる山でした。この銀を求めて世界中の商人がやってきたのです。

大内義隆

毛利元就が中国地方の覇権を取ったのは、尼子氏をその調略で倒し、そして大内氏を裏切った陶晴賢(すえはるかた)という人物を倒したことによって達成されました。

大内さんの話にいきましょう。寧波の乱で出てきた大内氏。そこでも言ったように、博多の商人たちを従えて強大な力を持っていました。

だから織田家と同じく商売で儲かっていたパターン。博多をと言っても、本人はあくまでも山口県あたりにいたんだけどね。

将軍からの信頼も厚く、戦国大名というよりも最後の守護大名という表現の方が正しいでしょう。

領国の経営もうまく、あるときそれまでの法律をまとめました。それが『大内家壁書』です。

ただ、大名として強かった大内義興(よしおき)と違い、それを継いだ大内義隆(よしたか)はあまり戦闘に興味がありませんでした。

よく勘違いされますが、戦国時代はみんながみんな全国統一を目指したわけではありません。

総理大臣になりたい人もいれば、小さなお店の主人が合っている人だっている。いくら戦国時代の大名といっても、何を目指すかは人によってさまざまなのです。

大内義隆は、その力を背景に領土を増やすのではなく、そのお金で自国を文化都市にしたいと考える人でした。

おかげで中心都市である山口は、当時最も栄えていた、華のある町になっていたんです。

ただ、家臣の中には「やっぱり俺は戦いたい」という人もいた。そんな不満を持っていた中心が、先ほどちょっと出した陶晴賢です。

次回の下剋上の話でもう1度見ていきます。彼の反乱で大内家は滅びてしまうのです。

三好長慶

続いては本州と四国の間、淡路島にいた三好長慶(みよしながよし)です。今では玉ねぎの一大産地である淡路島。ここと阿波踊りで有名な阿波国(現在の徳島県)辺りを支配地としていました。

ただ、京都に攻め入って大坂の堺に居座ったり、あるいは息子たちは織田信長の前に立ちはだかったりしていたので、場所は特に覚えなくてもいいでしょう。そもそも受験的にはマイナーな大名だし。

ただ本人が京都や大阪にいるころに阿波国の支配力を維持するため、現地の支配を任せていた者に出させた分国法、『新加制式』は覚えておきましょう。

そして、その信長の行く手を阻んでいた息子たちは、結果的に家臣の松永久秀(ひさひで)に殺されてしまうんです。

だから先程の大内&陶晴賢と同様、下剋上の例として取り上げられます。

ちなみに、四国に土地を持っている三好氏にとって、最大の敵は次の長宗我部です。これを牽制するために、秀吉の甥を養子に取っていました。それが豊臣秀次です。

秀吉になかなか実子が生まれなかったことから、後に秀吉のもとに戻る形で養子となり、そして秀吉の関白の職を引き継ぎます。

長宗我部元親

では、四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)に進みましょう。土佐国(高知県)の一部を支配していた長宗我部氏は、元親が一代で四国を全て支配する偉業を成し遂げました。

ここで僕らが覚えておきたいことは、今と違って昔は地理的な制約がものすごく大きかったということです。

本州から見ると土佐国は四国の裏側にあります。四国は山々の連なる地形であったことから、四国内での移動もあまりなく、結果的に都の情報があまり入らない、非常に遅れた地域となっていたのです。

村同士の行き来も少なく、だから同じ国にもかかわらず仲間意識みたいなものも薄い状況でした。そんなところから国を組織し、みんなで戦って四国を統一する。それをやったのが長宗我部元親です。

別に仲良くないもの同士をうまくまとめるためには、さまざまなルールを作って「みんな同じことをする」ことが必要でした。「同じ釜の飯を食う」みたいなやつね。それが分国法である『長宗我部元親百箇条』になります。

大友義鎮

九州に移ります。北部を治めていたのが大友義鎮(よししげ)です。大友宗麟(そうりん)という名前を聞いた人もいるかもしれません。出家したときの名前です。

大友氏は早くからポルトガルとの貿易に目をつけていました。ヨーロッパ人来航のところで話しますが、簡単に言えば儲かるからです。もう大丈夫だよね、金が必要なんです。

ただ、ポルトガルと良い形で貿易をするためには、キリスト教を受け入れる必要がありました。そして受け入れる中で、義鎮はキリスト教の考え方に感銘を受けます。

リーダーとしての悩みは当然にあったし、さらに義鎮は生まれつき心臓に病を持っていました。みんなを引っ張る立場なのに激しい運動ができない。そんな悩みにもキリスト教はヒントをくれたのです。

でもキリスト教を受け入れることは一方で、仏教をないがしろにすることでもありました。本人にその気は無くとも、周りからはやっぱりそう見えるんですよね。

ちょっとずつ国内に溝ができていきます。そんな状況を見て、調略の天才毛利元就が仕掛けてきます。大友軍は大敗、義鎮は何か腹をくくってこの状況に対処する必要がありました。

そして選んだのが、古くから大友家を支えてくれた人たちに自分の誠意を見せること。自らが出家をすることで、大友家は再び団結をしました。これが大友宗麟(=出家名)の誕生です。

チームワークの塊のようになった大友氏は再び毛利に挑み、そして大勝します。もう満足です。義鎮はちょっと早めに息子にゆずり、改めてキリスト教に入信します。

こうして出家後の名前を持ちながら、キリスト教の文脈でよく出る。一見変な状況に見えるのが宗麟の特徴です。

相良氏

九州には北に大友氏が、そして南には島津氏がいました。その間に挟まれていたのが、肥後国にいた相良氏(さがら)です。『相良氏法度』(さがらしはっと)という分国法がありました。

この分国法には、「土地ってどうやって売買するの?」「酒はこれくらいにしておけよ」といった具体的なルールが多く書かれており、戦国時代の社会風景が見える大事な資料となっています。

ただ、受験知識として覚えておく必要は特にありません。「戦国時代の飲酒量を答えろ」なんて出てこないから。分国法の名前もそのまんますぎて大した問題も作れません。

島津貴久

主な戦国大名、最後は九州の南部にいた島津氏です。明治維新まで、薩摩(鹿児島)と言ったら島津氏というくらい、強力な勢力を誇っていました。

この礎を築いたのが島津貴久(たかひさ)という人です。もともと薩摩には島津家同士の争いがあり、だからこそ他の家も力を持っている、バラバラな状況でした。

それを見事に統一したのがこの貴久でした。この人には4人の息子がおり、4人ともがこのあと素晴らしく活躍したことで、島津家が絶対的な力を持つようになったのです。

以上、2回にわたって主な戦国大名の紹介を行ってきました。「主な」というのはあくまでも大学受験としてはですよ。

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