室町時代⑦〜8代将軍足利義政、ひとでなしが起こした応仁の乱の話

8代将軍の足利義政についてです。銀閣寺を作ったとして小学校でも習う人だけど、現実には戦国時代を招いた張本人です。

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足利義政の頃の主な出来事

1441嘉吉の徳政一致
〈1443〉嘉吉条約
〈1454〉享徳の乱
1457コシャマインの乱
〈1461〉寛正の大飢饉
1467〉応仁の乱スタート!

嘉吉の徳政一揆

義教が殺されてすぐ、まだ次の将軍も決まっていない時期に新たな一揆が起こります。1441年、嘉吉の徳政一揆です。正長・播磨に続く3つ目の一揆。

大学受験日本史では正長の徳政一揆、播磨の土一揆、嘉吉の徳政一揆、山城の国一揆、加賀の一向一揆と、5つの一揆を覚えなければいけません。ただ、ここで多くの受験生が勘違いをするのが、一揆はこの5つしかなかったと思い込むことです。

一揆はいろいろなところで起こっていました。この5つが取り上げられるのは、あくまでもこの5つに歴史的な意義があるからです。正長のは日本初の民衆の蜂起だったし、播磨はコイツが地元のトップはムリ!と言って暴れた初のもの。

この嘉吉の徳政一揆は「政府に徳政を迫り、認めさせた」という点で初のことでした。民衆はかなり戦略的に動き、その結果本当に認めさせたのです。ここすごく大事。つまり、徳政一揆によって徳政令が出た最初のケースなのです。

どう戦略的だったのかというと、2つあります。まずは多くの大名が赤松満祐を討つために不在だったときを狙ったこと。そして神社などを占拠したことです。軍隊もいなければ、下手に攻撃すると重要文化財がぶっ壊れるということで、鎮圧できませんでした。

嘉吉条約

将軍がいないころの出来事としてもう1つ。義持の最後で応永の外寇という話がありました。朝鮮が対馬を攻めた事件で、これによって一時的に日朝貿易が衰退していました。これが1443年に嘉吉条約を結ぶことで復活します。

朝鮮といったら絶対に対馬の宗氏。このときは宗貞盛という人が締結しました。きちんとした条約を結んだので、これより日朝貿易が本格化していきます。「本格化」といったらこの出来事です。

この条約は朝鮮の言い方で癸亥約条(きがい)と呼ばれることもあります。

足利義政の将軍就任

足利義教が殺されたのが1441年。そして今の嘉吉条約が1443年。なぜ2年間も将軍がいなかったのかというと、義教の子がまだこのとき幼かったからでした。厳密には長男の義勝が7代になっていたんだけど、すぐに病死しています。

そこで弟が将軍になるわけだけど、当然もっとちっちゃいわけ。しばらくは管領中心に有力大名の合議制で政治が行われ、1449年になってようやく将軍となります。8代、足利義政(よしまさ)です。

享徳の乱

今、何気なく言ったけれど、義教の死後は大名の力が強くなっていました。義教が将軍による統治を目指したことを覚えているかな?つまり、義教は志半ばで殺されてしまったことで、彼が目指していたものは全て無になってしまったのです。

ということは、義教が潰した鎌倉府、これも何と復活しています。足利持氏の子の足利成氏がトップです。この人は父の敵である上杉氏が大嫌いでした。そりゃそうでしょ。けど、この人はそれで本当に上杉憲忠を殺してしまいます。1454年、享徳の乱です。

鎌倉公方が関東管領を殺したということで、鎌倉は大パニック。成氏もヤバいと思って鎌倉を飛び出し、義政もさすがに放っておくわけにいかないので弟の足利政知(まさとも)を討伐隊として鎌倉に派遣します。

成氏が逃げた先が古河というところ。今の茨城県です。それから鎌倉が混乱中で入るに入れず、政知は伊豆の堀越というところに留まって様子を見ます。こうして鎌倉公方は古河公方vs堀越公方という形で分裂しました。

ちなみに、当主を殺されたことでその後継争いが上杉氏に起こりました。こちらも扇谷上杉氏(おうぎや)と山内上杉氏(やまのうち)に分かれます。前者は後に北条早雲に滅ぼされ、後者は上杉謙信が登場します。

コシャマインの戦い

続いては、1457年のコシャマインの戦いです。東北から多くの和人(=本州の人、簡単に言えば日本人)が移り住んで好き勝手やっていたことに対し、首長のコシャマインを先頭に北海道の先住民であるアイヌの人たちがキレた事件。

奥州藤原氏が頼朝によって滅ぼされたあと、東北ではさまざまな覇権争いがありました。そこで負けた者はみんな北へ逃げたので、結果として北海道への移住が進み、そこでアイヌの人たちをイジメていたのです。

当時は北海道のことを蝦夷ヶ島(えぞがしま)と言いました。「蝦夷」は「えみし」ではなく「えぞ」と読むようになっています。「えみし」はマサイ族のように一族の名前で、「えぞ」は和人以外の人をまとめて呼ぶ言い方です。外国人みたいな。

北海道に移り住んだ人や、ぎりぎり青森にいた人などは、北海道貿易で儲けていました。今でも北海道物産市はどこも儲かってるからね。やっぱり北海道のご飯おいしいもん。

移住者の住処であり、貿易施設だったところを(たて)と呼び、大きいのが12個ありました。これを道南十二館と言います。その1つが函館です。

コシャマインはそのうちの10個までを潰したところで負けてしまい、この(本州の人から見れば)反乱は終わります。

寛正の大飢饉

足利義政の話に戻ります。この人はパパの義教とは正反対に、政治にまっっったく関心のない人でした。物心がつく前に義教が殺されたこともあるけど、とにかく完全に自分の趣味にのみ生きる、マジでひとでなし人間でした。

なぜこのことが強調されるかというと、この時期に中世最大の飢饉が起こったからです。寛正の大飢饉(かんしょう)といい、餓死者だけで8万人を出す大惨事でした。東日本大震災の4倍ですよ。お腹すいたってだけで。

この狂ったような状況の中でも、困っている人たちに対して義政は何もしませんでした。何もしないだけならまだしも、大金を使って銀閣寺を作っていたのです。

良い面だけを言えば、このアート大好きな義政のおかげでこの時代にさまざまな文化が発展するのですが、普通に考えたらやっぱりダメリーダーですよね。

応仁の乱

このひとでなし将軍は次第に将軍でいることすらダルくなります。いくら何もしないといったって、やっぱりいろいろな話を聞いてハンコを押したりしなきゃいけないからです。

ただ、義政には男の子がいませんでした。そこで弟に将軍になってくれと頼みます。足利義視(よしみ)と言いました。

義視にとってはおいしい話。ただ、これはあくまでも義政にチビがいなかったからきたもので、今後生まれたら義政の気が変わるんじゃないかと怪しんでいました。

義政は当時30歳。妻の日野富子も25歳。普通に子どもができる可能性があるでしょ。

将軍家の家督相続

そこで義視は管領の細川勝元に証人になってもらうことを条件にこの話を受けます。もちろん辞めたくてしょうがない義政はそれを了承。将軍の引き継ぎは円満に終わるはずでした。

ただ、そううまくいかないのが世の中の不思議なところ。この1年後に本当に富子が男の子を産んだのです。

そしてこの日野富子という人は、日本史の中でも最凶の嫁の1人でした。藤原氏の繁栄をもたらした光明子とツートップ。あらゆる手段を使い、この義政の実子、義尚(よしひさ)を次の将軍にしようとするのです。

それが山名持豊(もちとよ)の協力を得ること。山名家は応永の乱で潰されたものの、氏清の息子であるこの持豊がわずか1代で大名のトップにまで再び上り詰めていたのです。

政治家である細川勝元に対して、この人は完璧な武将でした。このようにして、【細川勝元&足利義視】vs【山名持豊&足利義尚】という将軍家の家督相続対立が起こります。

畠山家と斯波家の家督相続

こういった家督相続問題が同時期に他の有力大名家でも起こりました。まずは畠山家。ここも今言った将軍家と全く同じことが起こります。弟に家督を譲ったら、その直後に子どもができたパターン。弟の子が大きくなったところで争いになりました。

この弟の子を畠山政長といい細川勝元に取り入りました。一方、実子は畠山義就(よしなり)といい、政長の動きに危機感を感じて将軍義政の側近に近づきます。【細川勝元&足利義視&畠山政長】vs【山名持豊&足利義尚&畠山義就】が完成です。

同じく三管領の1つである斯波家が、こちらも同じように当主に子どもがいないという状況でした。もうどうしてこう揃いも揃ってこうなるのって話ですね。外から連れてこられたのが斯波義敏(よしとし)、中から推されたのが斯波義廉(よしかど)です。

こうして【東:細川勝元&足利義視&畠山政長&斯波義敏】vs【西:山名持豊&足利義尚&畠山義就&斯波義廉】による戦いが1467年に始まります。応仁の乱77年まで11年にわたって続き、京都の町を灰にした戦いです。

畠山家と斯波家の問題はあるにしろ、もともとは義政のヤル気のなさが引き起こしたようなもの。また義政が飢饉への対策も講じなかったために、世の中全体に不満が溜まりまくっていた。

結局のところこれが大乱が実現した原因であり、そのまま戦国時代に突入していきます。ちなみに、応仁の乱自体は東軍が優勢だったものの、持豊&勝元が亡くなったことで、なんとなくズルズルな感じで終わりました。以上が義政の政治です。

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