室町時代⑧〜山城の国一揆&加賀の一向一揆と、自由都市の話

室町時代の社会経済、そして財政と座の話が終わり、政治の話に戻ります。室町幕府9代将軍、足利義尚の時代です。

内容としては応仁の乱の終わりと、山城の国一揆&加賀の一向一揆の2つの一揆だけなので、それぞれの背景的なことも含めてまとめたいと思います。

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足利義尚の頃の主な出来事

1485山城の国一揆
1488加賀の一向一揆

9代将軍足利義尚就任

1467年に始まった応仁の乱は1477年に終わりました。一応、細川勝元がいた東軍の勝利です。メンバーが思い浮かばない人は、先に足利義政の時代を確認してから進みましょう。

逆にきっちり覚えてくれている人は、何で将軍が足利義尚なのかと疑問に思うはずです。もともと細川勝元は足利義視の後見人でしたよね。

応仁の乱が分かりづらいのは、途中で足利家が入れ替わっていることにあります。実は、勝元は戦いの途中で義尚を誘拐し、徹底的に守りを固めることをしました。

将軍家を取られた山名持豊は焦り、あくまでも義尚を取り戻すのではなく、義尚が来たことで立場が危うくなった義視を西軍に連れてくることをします。謎のトレード。

これには義尚の母親である日野富子が激怒。自分の息子の味方じゃなくなった持豊に対し、しつこい嫌がらせをします。

これが徐々に効いてきて、西軍はちょっとずつ弱くなっていくのです。いずれにしても、足利義尚が9代将軍となります。

山城の国一揆

義尚が将軍となったからといって、特別何かをしたわけではありません。義尚自身はデキるタイプだったけど、なんせ時代はもう戦国時代、幕府の権力も限られてしまっています。

ただ、義尚の時代には2つの超一大事件が起こりました。山城の国一揆加賀の一向一揆。一般人が大暴れし、守護を追放し、「自分たちのことは自分たちでする!」といって自治を始めた事件です。

まずは山城の国一揆。受験日本史では覚えるべき唯一の国一揆で、1485年に起こりました。

山城という地域は畠山氏が支配していた地域。畠山氏といえば、応仁の乱で政長(東)と義就(西)が争い、東軍である政長の勝利に終わっています。

ところが、チームとしては東軍が勝ったというだけで、畠山政長自身は戦うのがメチャクチャ弱く、一方の畠山義就の方はすごく強い人でした。

そのため義就は負けに納得できず、すぐに立ち上がって隣の河内国を勝手に支配してしまいます。そして再び山城を狙い始めたのです。まあ、気持ちは分からないでもないですよね。

でも、このことに地域の住民がブチ切れました。

前回、室町時代の関所の話をしました。商人の話だけに留めていたけれど、一般人だってものすごい負担を受けています。

稼ぐために通る商人と違い、一般人の場合はちょっと出かけるとか、お祖母ちゃんのお見舞いに行くといった用事でも通行料を取られるので本当に大変でした。

ただでさえ「生活が。。。」と思ってる上に、守護が無能なためにくり返し争いが起こり、そのたびに戦費調達で金をとられる。守護が戦うときの費用は、地域の人たちから徴収していたのです。

そこで「もう支配者なんかいるか!そんな奴ら消して自分たちでやる!」といって立ち上がり、畠山を追い出したのがこの国一揆でした。

そして三十六人衆と呼ばれる人たちを中心に、自治を行います。惣掟とか自検断などを作った惣村の話が国のレベルに大きくなったような状態です。

覚える必要は全くないけれど、実際に「惣国」という言葉もあるんですよ。

ただ、この自治は8年間で崩壊してしまいます。ここまでの説明で分かるように、この国一揆は現状があまりにも悪いという理由だけで進められたものでした。

だから、「じゃあ、どうしようか?どんなまちづくりをするといいかねえ」という話がありませんでした。ビジョンがなく行われてしまったため、結局は分解してしまったのです。

これはまさに平清盛と同じです。武士が認められない社会を破壊することには成功したけれど、武士による社会のビジョンを描けなかったからすぐにその天下を失ってしまった。

最初に世の中を動かした人は、たいていこの理由で散ってしまうのです。やっぱり、目指すものがあるって大事なんですよね。

加賀の一向一揆

自分たちの暮らしをどうするかといったビジョン、あるいはそれを語るカリスマリーダーがいなかった山城と違い、圧倒的に成功したのが加賀の一向一揆でした。

山城の国一揆が起こり、まだ自治を行っている1488年の話です。一向宗の人たちが暴れます。一向宗とは、鎌倉時代に親鸞(しんらん)が作った浄土真宗のことです。

実は親鸞亡きあと、驚くほど人気のない組織になっていました。誤解を恐れずに言えば、「阿弥陀仏を信じてさえすればOK」という趣旨の教えだったからです。(信じてる方ごめんなさい!)

ここだけだと「奇跡の勉強法」みたいに聞こえて誰もが入信したいものと思うかも。ただ、「阿弥陀仏さえ信じてれば合格できるよ」と言われても絶対信じないでしょ?

それだけだと不安だし、何の達成感もない。みんなこの感覚だったのです。

蓮如の登場

それが蓮如(れんにょ)というカリスマリーダーが生まれることで一変します。蓮如はまず、一向宗の本拠地をライバルが多い京都から移すことで体制を立て直すことにしました。

その引越し先になったのが越前国です。今の福井県。戦国時代のところで話す朝倉孝景の理解を得て、この地に吉崎御坊(ごぼう)を作ります。(蓮如も吉崎御坊も文化史でやるので、今は覚えなくて大丈夫です)

御坊とは一向宗の拠点となる大寺院のこと。蓮如は次に「信じるってのはこういうことだよ、これを信じるんだよ」ってことを徹底的に分かりやすく説明し、またそれを書き写したものを何千枚と書いて回りました。

すると、「なるほど、それならばこのハードルの低い教えはとてもいいものじゃん!」という納得感が生まれ、その教えに共鳴する人が増えていきました。

そして蓮如はそういった人たちに数人で集まって議論することを奨励します。他の人の意見を聞くことで、よりさまざな考え方に気づくことが目的です。これを講(こう)と言いました。

この講が面白いのは、一向宗に共鳴した人たちが集まったグループなので、必ずしも近所の人同士というわけではなかったことです。近所にそんなにたくさん同じ宗教を持った人っていないでしょ。

もちろん、くり返し集まるためにはそこまで遠い人はムリだけど、隣の国の人と会うくらいはかなり普通でした。月に1回なら片道3時間かけてどこか行くことくらいできるじゃないですか。

国が違えば当然くらしが違います。こっちは税金が不当に高いとか、守護がバカだとか、次第にくらしの不満に関するものが増えていくのです。

講を作って一向宗に関する議論が行われるというところまでが蓮如の想定でした。ただ、この社会への不満のはけ口として機能したことは予想外だったようです。

国人たちの参加

もう1つ、一向一揆を理解するためには、どういう人が一向宗に入ったかという話まで知っておきましょう。

世の中には中間管理職と呼ばれる人たちがいます。社長を中心とした経営者と、末端で働く労働者、これをつなぐ部長とか課長とか呼ばれる人たちです。この時代では国人だね。

この人たちにとってのあるある話は、上からは「もっとみんなを働かせろ!」と言われ、逆に下からは「ムリだよ、そんなに働けねーよ、理解しろよ」と言われること。まさに板挟み状態です。

一向宗に限らず多くの教えは、基本的に農民とか漁民とかの(中世社会では)末端の人たちに対して布教するものでした。

そこでこの国人たちは、自らが一向宗に入信することで庶民と仲間になる、「あ、イケてる上司!」と思ってもらえる策を取り始めます。

自国の状況を他国の仲間と話すことで理解してきた庶民に対し、国人は「守護は君たちをこんなふうに扱うように俺らに言ってくるんだぜ」という話をします。

これでなぜ一揆が起こったのかがだんだん分かってきたかな?

足利義尚の遠征

では、加賀の一向一揆が起こった発端の話にいきましょう。吉崎御坊を置いた越前国と一向一揆が起こった加賀国はお隣さんです。福井県と石川県ですからね。このような理由で、加賀には一向宗の人が多くいました。

そしてこの加賀国では守護の富樫(とがし)氏の中で権力争いがありました。遅れてきた応仁の乱みたいな話。そしてこの富樫氏は争いに勝つために禁じ手を使ってしまうのです。

それが一向宗に助っ人として味方してもらうこと。南北朝や義満のところで話した「他所の力を使っちゃいけない」という原則を、結果的に勝った富樫政親(まさちか)もやらかしてしまったのです。

もちろん政親は勝って守護になりましたが、共通の敵がいなくなると、政親vs一向宗の対立が始まります。一向宗の人々は基本的に権力者を嫌いになってるからね。

こんな状況になっているところで、不運にも政親は将軍足利義尚に「ちょっと来て」と呼ばれてしまいます。近江国で室町幕府に対する反乱を起こした者が現れたのです。

能力は高いのに実績が何もない足利義尚は、ここでトップとして全軍を動員し、ボコボコにすることで圧倒的な力を示したいと考えました。それで有力大名を片っ端から呼び寄せます。

こうして富樫政親は一度加賀を離れます。その留守をしたところを見計らって一向宗の人々が大暴れしたのが1488年の加賀の一向一揆でした。

慌てて戻った政親でしたが、その勢いに勝てず、結局この年に自刃します。以後、加賀では一向宗という教えに従って100年間の自治が行われたのです。

ちなみに、蓮如は守護をぶっ飛ばすみたいなことは望んでいませんでした。そのため、もうみんなの暴力性が抑えられないと判断すると、実家に近く静かなところに引っ越します。

この当時「静か」だった場所が、今の大阪です。今は静かさとは無縁なイメージですが、当時はまだ何もありませんでした。

ここで新しく作った一向宗の拠点が石山本願寺であり、信長と大戦争を繰り広げ、結局はその跡地に秀吉が大阪城を作る。こうして大阪は発展していくのです。

自由都市

自治の話が出てきたので、もう1つ自由都市という話までして終わりたいと思います。国レベルではなく、地域レベルで自治を行っているところというのが実はいくつかありました。これが自由都市、あるいは自治都市です。

基本的には商売がものすごく盛んな場所で、商人が商売をしやすいようにいろんなルールを決めている感じ。博多の2つを覚えておきましょう。

堺は35人の会合衆(えごうしゅう)が、博多は12人の年行事という人たちがリーダーとなって動いていました。

特に堺の会合衆と、山城の三十六人衆を間違えないように。以上、小学生でも習う山城の国一揆と加賀の一向一揆、そこに自由都市を加えた話でした。

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