戦国時代です。応仁の乱から本格的に始まった戦国の世。これが豊富秀吉によって天下統一されるまでをまとめていきます。
今回は主な戦国大名の紹介と分国法の話です。
戦国時代は人気なこともあり、キリがないくらいたくさんの本やテレビ番組が作られています。もちろん僕も好き。
ただし、大学受験の日本史では、あまり重要な時代ではありません。
全体的に細かい話ばっかりなんですよね。だからきっと戦国好きの歴史オタクが多いんだと思う。
でも、マニアックな話は「公教育」という形でみんなに知ることを強制するものではないよね。
なので、詳しい話はまた別の形で熱く語れればと思っているけれど、基本的にはさっぱりめに紹介していきたいと思います。
紹介の順番も出来事の流れに沿ってではなく、単純に北にいた人から、何となく東北→関東→北陸・中部→近畿→中国→四国→九州な感じで並べます。
さっぱりめとはいえ、全部やったら超長く長くなってしまうので、2回に分けてやっていきますよ。
主な戦国大名(前半)
- [陸奥]伊達稙宗:『塵芥集』
- [相模]北条早雲:『早雲寺殿二十一箇条』
- [下総]結城政勝:『結城氏新法度』
- [越後]上杉謙信
- [甲斐]武田信玄:『甲州法度之次第』
- [駿河]今川義元:『今川仮名目録』
- [尾張]織田信秀
- [美濃]斎藤道三
分国法とは
各戦国大名の紹介に入る前に、分国法を紹介します。分国法とは、大名が自分の領地を支配するために制定した、その地域のみで効力を持つ法律のことです。
家法とか壁書とも言われ、今で言えば条例に当たるものになります。
大学受験日本史では11個の分国法を覚えておきましょう。作った武将のところで紹介するので、とりあえず今は挙げるだけ。
『塵芥集』『早雲寺殿廿一箇条』『結城氏新法度』『甲州法度之次第』『今川仮名目録』『朝倉孝景条々』『六角氏式目』『大内家壁書』『新加制式』『長宗我部元親百箇条』『相良氏法度』
多いけど、ほとんどが「○○さんの✕✕法」みたいな名前だから、誰が作ったかを間違えることは少ないかな。では、1人ずつ戦国大名を紹介していきます。
伊達稙宗
では、主な戦国大名の紹介を1人ずつ進めます。まずは東北地方の伊達氏です。東北と言ったら伊達氏、「伊達の牛タン」なんて店で覚えておきましょう。
伊達氏は政宗(まさむね)がすごく有名だけど、それは豊臣秀吉から江戸時代にかけての人です。この時点では伊達稙宗(たねむね)が率いていました。
この人が羽州探題だった最上氏を倒したことで、伊達氏は陸奥国を支配するようになったのです。
別に最上さんを覚える必要は全くありませんが、羽州探題と聞いたら即座に室町幕府の仕組みと思えるように。他の時代と混ざるからね。
そしてこの稙宗を覚えて置かなければいけない理由が、分国法である塵芥集(じんかいしゅう)の存在です。さっそく分国法が出てきました。
これは全分国法の中で最も条文の数が多いもので、171条もありました。覚えられるか!そんなに覚えられる人は171(いない)、なんてね。
ちなみに「塵芥」とは、多種多様という意味です。
北条早雲
続いては関東まで下がって北条早雲(そううん)です。この人は戦国大名第1号と位置づけられています。
というのも、もともと三重県にいた伊勢氏の出身でした。実際、伊勢宗瑞(いせそうずい)や伊勢長子(ちょうし)という名前で以前は活躍をしていました。
改めて戦国大名って何?という話をすると、幕府の権威と関係なくその地域を支配している人たちのことを言います。
幕府の許可がないのに地域を支配している人たち。
倒すなり騙すなりしてその支配権を奪い取った人たち、つまり下克上をした人は分かりやすいと思うけど、守護として認められていながら、それ以上に強大な支配をした人も含まれます。
北条早雲は元々は地元で幕府の政所執事の立場だったにも関わらず、「もう幕府はムリだな、もっとエラくなれる方法を考えなきゃ」と言って静岡の方にやってきました。
現在も会社に養ってもらわないで自分の力で生きていける力を身に付けろ、なんて言われることありますよね。それと同じようなもの。だから今も戦国時代なんだと思います。
北条早雲が静岡に来たのは、妹が今川氏(後ほど)に嫁いでいたからでした。
それを頼って来てみたら、運良くそこでお家騒動が起こって良い感じに活躍して偉い立場になり、さらにどんどん東を支配していく。その結果神奈川まで来て小田原に陣取った。
これが北条早雲の何となくの生涯です。その後は子どもたちも頑張り、関東に一大帝国を作ります。
そしてこの帝国が秀吉に破れたとき、天下は統一されたんです。
結城政勝
続いては千葉県にいた結城政勝(ゆうきまさかつ)です。結城合戦を覚えているでしょうか。足利義教のところで出てきた、大学受験ではそんなに重要ではない事件です。
このとき結城氏はサクッと負けてたんだけど、足利義政のときに起こった享徳の乱で足利成氏が復活したときに一緒に復活をしていました。
そして、基本的には強くて政治センスのあるリーダーが続きます。
その結果、この結城政勝の時代に一番力を持ちました。政勝が晩年に出した分国法、『結城氏新法度』を覚えておきましょう。
ま、訛りが多くて読みづらいこと以外、特徴は特にないんですけどね。
ちなみに、ちょっと昔の話を思い出してもらうと、平将門の乱を終わらせた人物を覚えていますか?
押領使の藤原秀郷なんて人でした。実はこの人の子孫がこの結城氏です。
上杉謙信
続いては越後国にいた上杉謙信です。有名人ですね。元々は長尾景虎(かげとら)という人物でした。
長尾家はもともと越後を支配していた一族です。そこのリーダーだった。
それが永享の乱の結果分かれた山内上杉氏から「ウチは優れたリーダーがいないので継いで下さい!」的なこと言われ、上杉謙信となったのです。
大企業から社長就任のオファーがきた感じ。
この人は誰よりも「義」を重んじるイイ人でした。
あるとき、次に登場する武田信玄が信濃国を攻めます。攻められた方は自力では勝てないので、何とか助けてくれと謙信に頼みました。
自分を頼ってくれるならと言うことで、謙信は出兵します。こうして起こった上杉謙信vs武田信玄の戦が川中島の戦いです。
これも大学受験では別に重要ではないですが、一般教養としては知っておきたいものね。
ただし、この時代の兵士は、ほとんどが普段は農民です。なので農業が忙しい時期は戦うことができません。
まず食べ物の確保が最優先だからね。田植えや稲刈りはもちろんのこと、常に鬼のような雑草取り追われています。春から秋は忙しいのです。
一方で、長野と新潟は今でも超がつくほどの豪雪地帯ですよね。冬は雪に埋もれて戦地まで行くことがそもそもできませんでした。
だから戦える期間がすごく短いし、その間で決着がつかないと「続きはまた来年!」という話になります。
その結果、川中島の戦いは計5回にもなってしまいました。「もういっか」ってならないのかね。
武田信玄
では、もうすでに名前を出した武田信玄です。こちらは大事で、戦国時代を生きた軍人としても、そして自分の領地を治めた経営者としても超一流でした。
もちろん謙信も同じくらいに優れていたからこそ川中島の戦いが長引いたわけで、この2人は同等と言っていい存在。
ただ、信玄の方が国を統治する部分において分かりやすい結果を出しています。
それが甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい)という分国法と、信玄堤(しんげんづつみ)と呼ばれる堤防の存在です。
信玄がいた甲斐国は山々とそれに挟まれた土地といった感じの地形でした。もちろん人は山には住めないので、その挟まれた土地で暮らします。
でもこういった場所は人だけでなく雨水なども集まってきやすい。だから川の氾濫が頻発するような土地でもありました。なので、本来は田畑を作って暮らすには向いていません。
しかし、信玄はこの当時世界最先端の農業土木技術を持っていました。さまざまな工事を行って見事に川をコントロールしたのです。
いろいろやった工事の中で目で見て分かりやすいものの1つが堤防であり、そのあまりの見事さに信玄堤と呼ばれるようになったのです。
ちなみに、豊かな農地があっても、それは食うには困らないよっていうだけ。なかなか強大な戦力を作るまでの軍資金を作れません。
結局は天下統一をできなかったにしても、武田家は間違いなく戦国最強の軍事力を持っていました。なぜそんなに強くなることができたんでしょうか。
実は、これも信玄堤と関係があります。信玄の技術力は川のコントロールだけに留まらず、それを洪水の起きやすい地形にしていた山々の方にも向けられていました。
山も支配した結果、実はこの時期の甲斐は金の産出地でもあったのです。強くあるためにはやっぱり金がいる。そんな基本原理も頭に入れておきましょう。
もっとも、今はお金がなくてもTwitterやYoutubeで有名になって稼げますよね。やっている人はフォローするのでぜひ教えてくださいね!
今川義元
続いては今川義元です。織田信長に桶狭間の戦いで負けた人と小学校で習うので、「敗者」のイメージを持っている人も多いでしょう。
でも、本当はメチャクチャ有能な人物で、静岡の駿河国を中心に東海地方を広く支配した大名でした。
それこそ歴ヲタの中には今川義元ファンもかなり多いと思います。師匠だった太原雪斎(たいげんせっさい)という坊主が大好物な人もたくさんいます。
僕だっていろいろ語りたいところではありますが、大学受験では本当に「桶狭間の戦いで負けた」しかいらないのでここまでにしておきましょう。
気になる人は『桶狭間戦記』を読んでください。
織田信秀
次は織田信秀です。織田信長のパパ。こちらも『桶狭間戦記』を読むのが一番。
このマンガを読んでもらえれば、信長がスゴかった理由の1つがこのパパの存在っていうことが分かります。
少し話すと、信長は後に商売による経済の発展に力を入れました。ただ、それは信長が独自に考えたことでなく、そもそもこの父ちゃんがやっていたことだったのです。
さっき武田信玄のところで、強くあるためには金がいると言いました。自分の土地から取れる金で財を作った信玄と違い、商売に力を入れることで強くなっていったのが織田氏というわけです。
織田家と言ったら尾張国、今の愛知県あたりというのは必ず覚えておきましょう。
斎藤道三
パパの次はお義父さんです。信長の奥さんは帰蝶(きちょう)という人でした。『麒麟が来る』でお薬の件で問題になった役ですね。
その親父が斎藤道三(どうさん)になります。愛知県の北の岐阜県、旧国名では美濃国を支配していました。
帰蝶は通称「濃姫(のうひめ)」と呼ばれています。ゲーム等でこちらの名を知っている人もいるかもしれませんが、単に美濃国のセレブな女性って言ってるだけで、本名は帰蝶です。
道三はもともと灯油を売り歩いていた商人でした。ただ営業力がずば抜けており、セールスマンとして大成功を収めます。その押しの強さから「マムシ」なんて呼ばれました。
その後、もっとかっこいい武士になりたいと思うようになります。ビジネスで成功した人がよく馬主になったりするような話。いいよね、馬主。僕もなってみたい。
そしてその自慢の押しの強さで国の支配者にまで上り詰めたのです。農民から全国統一を果たした秀吉なみに、下から成り上がった人といえるでしょう。
ま、アクが強すぎて子どもとうまくいかず、最後は息子に殺されてしまうんですけどね。長くなってきました。今回はここまでにしましょう。