室町時代⑥〜クジ引き将軍足利義教と正長・播磨の土一揆の話

室町幕府6代将軍の足利義教(よしのり)と、土一揆についてまとめます。義教はムチャクチャな政治をやった悪人と教わることが多いけど、そんなことはありません。

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足利義教の頃の主な出来事

1428正長の徳政一揆
1429播磨の土一揆
1429琉球王国建国
1432〉日明貿易再開
〈1438〉永享の乱
〈1440〉結城合戦
1441嘉吉の乱

6代将軍足利義教の就任の経緯

足利義持は、途中で将軍職を一人息子に譲りました。自分自身がそうだったよね、将軍になってからも、親父の義満がしばらく実験を握っていました。

ここで譲られた5代将軍が足利義量(よしかず)です。ただ、この人は義持よりも先に、19歳の若さで亡くなります。じゃあ6代目をどうするか。

くり返しですが、義量は一人息子です。仕方がないので義持の弟の中から選ぶことになりました。選び方はクジ引き。見事に当たりを引いたのが足利義教です。

今の感覚ではテキトーに決めたように感じるけれど、当時は科学がない時代。「クジ引きで決まる=神に選ばれる」という認識がありました。

下手な選び方をするよりもずっと納得感があるものだったのです。

正長の徳政一揆

このゴタゴタの間に、世間では日本史上初めて民衆が蜂起するという事件が起こります。1428年、正長の徳政一揆です。

山城国の近江坂本というところにいた馬借が高利貸しを襲ったことを発端に、京都周辺一体で普通の人が暴れるという事態になります。

馬借とは、社会経済のところで話すけれど、この時代のクロネコヤマトです。鎌倉時代に問丸と呼ばれてた人たちが、その荷を守るために戦える集団になったもの。

だからクロネコ+アルソックみたいなもんだと思っておこう。

なぜこの人たちがキレたのか。もう単純に社会が乱れまくってたからです。室町時代は足利将軍が日本中をまとめていた時代ではありません。

むしろそれとは程遠いい状況で、それぞれがわがままを言い、将軍がそれを全く抑えられない時代でした。この状態が本当に爆発したのが、次の戦国の世です。

馬借も同じこと。ビジネスをするために高利貸しからお金を借りてたけど、返すのは決して楽じゃありません。

次第に「あいつら利子で儲けまくりやがって許せん」となり、将軍が空白ですぐに対処できそうにない時期を狙って行動を起こしたのでした。

一揆自体は管領の畠山満家が鎮圧します。ただ、借金の証書を破るなどして、結果的に徳政を勝ち取りました。「徳政=借金帳消し」ですよ。

このような法令もなく実力行使でを勝ち取った徳政を私徳政(しとくせい)と言います。くり返しになるけど、この正長の徳政一揆が起きたときは将軍がいないので注意。

播磨の土一揆

正長の徳政一揆のあと、義教が将軍になります。ただ、そのまま一揆の話を続けたいので、義教がどんな政治を行ったかについては後回しにし、就任直後に起こった播磨の土一揆について話します。

先ほど言ったように、正長の徳政一揆は日本で初めて一般人が暴れた事件でした。面白いことに、一度暴れる人が現れると、2回目、3回目って連鎖するようにすぐ起きるんだね。

正長の徳政一揆が起きた次の年、1429年に播磨の土一揆が起こります。

この一揆は人々が徳政を求めて起こしたものではありません。この地域を支配している守護の赤松満祐(みつすけ)をどうしても追い出したくて、播磨中の人が立ち上がった事件です。

なぜそんなに嫌われたのか。

赤松満祐はこの播磨で生まれ育った普通の武士でした。南北朝の動乱でちょっと活躍したために、この地の守護に任命されたのです。

もともとは普通の武士だったということは、同レベルのやつがたくさんいるということ。満祐だけ偉くなったのを面白く思わない武士がたくさんいました。

その不満が重税に苦しむ人々の不満と合体し、じゃあ農民も武士も一緒になって倒しちゃおうよという話になったのです。

ただ、結果としては赤松満祐がうまいこと鎮圧させてしまい、民衆の行動は失敗に終わってしまいました。

琉球王国建国

播磨の土一揆と同じ年、琉球王国が誕生します。沖縄だね。もともと沖縄は3つの国に分かれていました。北山・中山・南山の3つで、全体で三山と呼ばれます。

これを中山の王である尚巴志(しょうはし)という人が統一し、琉球王国を作りました。沖縄だと思うと親近感が湧くけど、この当時は外国だからね。

この国は東南アジアのものを仕入れ、日本に売ることで国内にお金が貯まり、繁栄をしていきました。このやりとりのことを中継貿易と言います。

琉球王国についてはまた江戸時代にいろいろ登場するので、ここでは首都が首里で貿易をやっていた港が那覇だったということだけ覚えておきましょう。では、ここからが足利義教の話となります

日明貿易の再開

義教はクジ引きで選ばれただけの将軍なので、みんなに舐められないように徹底的に他人を潰す「万人恐怖政治」を行ったという説明をされることがよくあります。

ただ、本当は全然そうではありません。

上でも言ったように、この時代は日本中がバラバラの状態でした。こういうとき、リーダーはある程度の強権を持ってきっちりと統制をしなければいけません。

しかも義教はクジ引きを通して神に選ばれたと自分自身で思っている。できるに決っていると思うわけです。だからそれを実行しただけ。

たしかに万人恐怖政治をやったのは事実だし、今の価値観で見たら悪人に映るかもしれないけれど、その当時の時代背景や価値観を考えると、そうでもないと思います。

で、しっかりとした国の統治を行うには、やはりお金が必要でした。そこで彼は義持によって中断された日明貿易に注目します。

たしかに朝貢形式だけど、それ以上にこの日明貿易がもたらす莫大な利益を取るべきだと思ったのです。1432年、日明貿易が再開されます。

ちなみに、外国パワーを使ってはいけないんだという話をしました。ただ、義教は明の力を使って誰かを倒そうとしたわけではなりません。

懐良親王とも義満ともその点は違うのです。単純にお互いの利益を目指す。そこにおいては何も問題はありません。

永享の乱

受験日本史では義教が頑張ったことはほとんど語られません。唯一あるのが永享の乱です。きちんとした統治を目指す義教は、邪魔な奴を徹底的に潰していました。

そして1番厄介な存在だった鎌倉府を制圧したのがこの永享の乱です。

鎌倉府がなぜ厄介かというと、幕府と物理的に遠いこともあり、時間が経つにつれて独立の意識を強めていました。

もともとは鎌倉こそが武士のホームなので、東北や九州以上に強さや自信を持っているのです。

そしてこのときの鎌倉公方である足利持氏、上杉禅秀の乱でも問題になった人だけど、この人は義教のことを「なんでアイツが将軍なんだ」と不満に思っていました。

そりゃそうだ。ただ、将軍義教は現実に誕生し、本気で鎌倉府を潰しにかかります。

義教の時代、関東管領には上杉憲実(のりざね)という人がなっていました。この人は幕府に好意的な人で、上杉禅秀の乱のあと義持によって任命されていました。

禅秀に味方をした人が罰せられたことで、鎌倉には持氏派の人ばかりになっていたからです。

幕府は憲実を通じて鎌倉府の状況を把握していました。そして持氏と憲実の対立が激化し、ついに持氏が憲実を討つとなったところで義教が行動に出ます。

鎌倉を脱出した憲実を持氏が追っていったところで、近くにいた味方の武士と一緒に包囲したのです。

義教が仕掛けたトラップにハマった持氏は瞬時に終わったと悟り、おとなしく寺に幽閉されます。それでも徹底的にやる義教はその寺に火を放ち、結局持氏は燃え盛る寺の中で自刃しました。

結城合戦

義教が直接戦うのではなくこのような包囲戦を行ったのは、持氏が実感したように、完全に囲まれてる感を鎌倉に与えることで、幕府の圧倒的な強さを示そうとしたからでした。

ただ、この方法を取ったことで、敵の戦力がそのまま残るという結果にもなってしまいます。圧力は与えたけど、持氏とその側近が消えただけで、それ以外の戦力は特に減ることもなかったからです。

そして持氏の子どもも脱出に成功していました。

この子どもを利用して結城氏朝(ゆうきうじとも)という人が反乱を起こします。結城合戦です。まあ、この戦い自体は即鎮圧という運びになるので、義教がやったことの原因と結果だけ分かればいいでしょう。

嘉吉の乱

足利将軍にとって最大の障害だった鎌倉公方足利持氏を倒し、もうこれ以上の敵はいない、あとは1つずつ潰していけばいいだけという状態になりました。

恐怖政治を行ってきた義教もニッコリ。しばしば宴会の日々を過ごします。

そんな中、播磨の土一揆で出てきた赤松満祐の家から「うちでも祝わせてくださいよ!」という申し出があり、義教は「よかろう」と言って気分よく出かけます。

そしてその宴会中、突如たくさんの赤松家の人間に押さえつけられ、義教は殺害されました。

リーダーとして国の統制に尽力し、ほぼ完成というところまでやりきった足利義教。それでも最後の最後で室町時代特有の空気に屈します。

義満でダメで義教でもダメ。以降大きな力を持った足利将軍は現れません。以上が足利義教の話でした。

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