室町時代⑨〜足利義稙・義澄・義晴と三浦の乱・寧波の乱

今回は室町幕府10代から12代まで、3人の将軍の時代をまとめます。足利義稙(よしたね)・義澄(よしずみ)・義晴(よしはる)です。

室町幕府は15代まで将軍がいますが、それはもう完全に戦国の世の話。なのでこの講義としては、今回を室町時代の最終回にしたいと思います。

スポンサーリンク

足利義稙・義澄・義晴の頃の主な出来事

〈1493〉明応の変
1510三浦の乱
1523寧波の乱

足利義稙とは

前回、足利義尚は反乱者を鎮圧するために、さまざまな有力大名を呼び寄せた話をしました。このとき、実際に義尚自身も遠征をしています。リーダーが自ら行った方がカッコいいからね。

ただ、この戦いで義尚は勝ち切ることができませんでした。ギリギリまで追いつめては逃げられ、またちょっかいを出してきたのを叩いてはまたギリギリで逃げられることをくり返していたんです。

こうして遠征が伸びる間、ホテル暮らしが続きます。やっぱりきちんと休めないわけですよ。義尚は病気になって亡くなってしまいます。享年25歳、まだ子どももいませんでした。

そこで次の将軍に選ばれたのが足利義稙(よしたね)です。どんな人かというと、応仁の乱で足利義尚と争った足利義視、その子どもでした。要は義尚の従兄弟ですね。

でも争った相手の子どもということは、基本的には敵なはずです。それでも将軍になれたのは、ここでも日本史上最凶の嫁である日野富子の力によるものでした。

というのも、足利義視の妻は、前回日本史上最凶の嫁の1人と紹介した日野富子の妹だったのです。つまり、義稙と富子は甥と叔母の関係。

将軍の母という立場で権力を得ていた富子には、その将軍に何かあったときの保険として、妹を相手方に嫁がせ、次期将軍を甥にするプランを持っていたのです。

息子が亡くなったことは当然ショックでしたが、それでもこの保険が利いて富子は権力を持ち続けます。

明応の変

足利義稙は優れた将軍でした。その証拠に義尚が残した反乱の鎮圧をすぐに終わらせてしまいます。ただ、残念なことに、ここからちょっと調子に乗ってしまいました。

するとすぐにクーデターを起こされて将軍から引きずり降ろされてしまいます。それが1493年、明応の変(めいおうのへん)です。もう少し背景を話していきましょう。

実は、この義稙が将軍になることを嫌がっていた人がいました。管領の細川政元です。こちらも応仁の乱で出てきた細川勝元の子です。

義稙の父である義視は、最初は勝元と仲が良かったのに後に山名宗全に担がれていました。簡単に言えば裏切り。だから政元は義視・義稙の親子が大嫌いだったのです。分かる分かる。

そこで、足利義稙がまた別件で出撃した際、京に残っていた政元は「義稙を辞めさせて足利義澄(よしずみ)を新たな将軍にする」と宣言をします。一応11代将軍になります。

もちろん将軍の方がエラいわけで、これをした政元は反逆者です。誰かに捕らえられたら即処刑のはずでした。ただ、義稙の言うことを聞く大名がほとんどいなかったのです。

これが室町時代の特徴であり、これまでもくり返しあったこと。つまり将軍はみんなに担がれている存在であって、力で大名をねじ伏せられているわけではない。

将軍中心の政治体制を作ろうとした義満・義教はともに暗殺されているのでした。これが分からないと本当に室町時代は謎の時代に見えると思います。

細川政元の問題ある趣味

政権を勝ち取った政元でしたが、1つ大きな問題を抱えていました。なんとこの人、「忍者になりたいおっさん」だったのです。変なことを言い出したと思うでしょうが、大マジです。

飯縄の法(いいづな)と言うれっきとした忍術に没頭していました。実は、上杉謙信などもこの忍術に惚れ込んでいたという説があります。そりゃ、できるなら僕も使いたい。

ただ、この飯縄の法を習得するには条件がありました。女性と関係を持っちゃいけなかったのです。つまり子どもを作ることができない。謙信も後を継いだのは甥の景勝でした。

さっき問題と言ったのは、飯縄にハマってることではなく(個人がどんな趣味を持っていようが、殺人とか麻薬とかじゃなきゃいい)、この超有力大名が跡取りを作れないことだったんです。

そこでまず有力貴族の子どもを養子にもらいます。この子のお母さんは義澄のオバちゃんでもあり、将軍・貴族・細川が仲良くなるといろいろやりやすいという、周りからのアドバイスでした。

ただ、政元はあとになって「え、細川の血が流れてる奴がよくね?」と言い出します。そりゃそうなんだけど、もう養子縁組を結んでから言うなって話。これが終わりの始まりでした。

実際に細川家から新たな養子を取ることで、先に来た貴族の子ははじき出されます。この子はどんな気持ちになるでしょうか。キレるよね?政元はこの子によって刺されてしまうのです。

こうして細川側が混乱しているスキを見て、1508年に義稙が将軍の座を奪回してしまいます。クーデターによって将軍を降ろされたのが明応の変ですが、結局は戻ってくるのでした。

三浦の乱

義稙の時代に起こったもう1つの事件が三浦の乱(さんぽのらん)です。「みうら」じゃないよ。朝鮮にある3つの港(塩浦(えんぽ)・富山浦(ふざんほ)・乃而浦(ないじほ))の総称です。

この3つの港に約2000人の日本人が住み、日朝貿易を行われていました。その一部が密貿易を行っていたことが発覚します。

これにキレたのが朝鮮の王様。国外退去を通告するわけだけど、これに日本人も逆ギレ。ま、倭寇が普通にウロウロしている時代なので、そもそもそんな不正はあって当たり前なんです。

実際に向こうに駐在している人がいなかったら困るので、普段は対馬にいる日本人の貿易家や、そこで商品を売ってもらっている人たちも加わり、大規模な反乱を起こしました。

でもアウェーで戦う方は不利です。朝鮮軍が登場し、日本人はボロ負け。以降朝鮮に滞在することを許されませんでした。

嘉吉条約でせっかく復活した日朝貿易が、これで完全に衰退してしまったのです。これが1510年、三浦の乱です。

〈1399〉日朝貿易開始(↑)→〈1419〉応永の外寇(↓)→〈1443〉嘉吉条約(↑)→〈1510〉三浦の乱(↓)。盛り上がって衰退を繰り返すのが室町時代の日朝貿易です。

ちなみに、富山浦は今の釜山(プサン)です。

寧波の乱

将軍は12代足利義晴(よしはる)に代わります。11代義澄はさっき明応の変で話したとおりなので、10代義稙の次は12代義晴だから注意してね。

この時代は1つだけ、1523年の寧波の乱(にんぽー)です。日明貿易は寧波で入国チェックが行われるのを覚えていますか?ここで日本人同士が争った、なかなか恥ずかしい事件です。

争ったのは大内氏&博多商人と細川氏&商人。必ず地域とセットで覚えましょう。この両者は日本の貿易界では2トップの存在でした。

管領を歴任していた細川氏は、その支配地域内に堺がありました。むしろ堺があったからこそ強大な経済力を持ち、権力を握れたというのが本当の順番です。

じゃあ大内氏の方は誰かというと、話は上で出てきた明応の変に戻ります。

10代将軍の義稙は、クーデターを起こされてから10年以上隠れて暮らしていました。これを匿っていたのが中国地方より西で圧倒的な力を持っていた大内氏だったのです。

そして義稙が再び立ち上がった際、一緒になって京に行っています。義稙政権の元で右腕的な働きをし、そのときに得たのが日明貿易の全権でした。

こうして政元はいなくなっても力は残っている細川氏と、より強大になった大内氏の争いとなり、このタイミングで衝突したのです。

西の有力者である大内氏と博多の商人、中央で権力を持っていた細川氏と近場の堺の商人。この組み合わせを絶対に間違えないでください。

いざ、戦国時代へ

以上で足利将軍15代のうち、12代までの話が終わりました。もちろん残りの3人も出てくるけれど、この時点ですでに何人もの戦国大名と呼ばれる人たちが活躍をしています。

それに次に出て来る出来事は鉄砲伝来です。ごちゃごちゃしないように、次回からは戦国時代としてまとめていこうと思います。

スポンサーリンク