室町幕府の仕組み〜統治機構と足利氏のリーダーシップの話

室町幕府の統治システムをまとめます。鎌倉幕府や建武の新政とゴッチャになりやすく、出題者も当然そういうところを狙って出題してくるので、正確に覚えよう。幕府の財源と守護のお仕事も。

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室町幕府の統治機構

室町幕府の体制は、侍所・政所・問注所の名称が全部同じなのもあって鎌倉幕府のものとかなり似ていました。なので、鎌倉幕府の仕組みを完璧にイメージできるか確認してみよう。できなかったらまずは復習を先にしてください。

その上で、鎌倉幕府と室町幕府は5つの点で違いがあります。①執権→管領、②評定衆&引付衆の格下げ、③六波羅探題→鎌倉府、④東北&九州が3州探題へ、⑤奉公衆の設置、です。これを押さえたらバッチリです。

中央の仕組み

前回話したように、室町幕府の体制は2代将軍の足利義詮が作りました。この人は【戦闘=尊氏】【政治=直義】と役割が分かれた結果、戦いがズルズル伸びたのを見ています。そこで、強力なリーダーシップが必要だと考えるわけです。

また、室町幕府と武士の関係は、鎌倉幕府のに比べてだいぶ緩いものでした。何度も話してきたように、ひと口に武士といってもいろんな奴らがいるし、もう武士がいる社会が当たり前になっていて、鎌倉幕府ほどの重要さもなかったからです。

だからこそ、室町幕府はより強いリーダーシップがなければいけなかったのです。そこで義詮は、合議制期間である評定衆と、その下で裁判を担当する引付衆の上に将軍がいる形へと変えました。

管領

ただ、そんな全部のことをやってたら当然将軍がパンクします。そこで将軍代行を1人置きました。これが管領です。この人の下に侍所・政所・問注所・評定衆(&引付衆)がついています。

管領は、基本的には将軍補佐なので執権とあまり変わりません。ただ、鎌倉時代は執権が評定衆の中にいたのに対して、評定衆の上に管領がいるというのをきちんと押さえてください。

侍所・政所・問注所

続いては侍所・政所・問注所の仕事内容です。そんなに大事でもないですが、鎌倉時代とは少し違うので確認しておきましょう。

侍所は武士の統率ではなくで京都の警備が仕事になっています。トップの人も別当でなく、所司(しょし)と名前が変わっています。細かい知識だけど山城国の守護も兼任です。

政所は政治全般ではなく財政がメイン、問注所は裁判ではなく文書保管がお仕事。文書保管ってのは、この土地は誰々のものという証書などです。現代風に言えば戸籍謄本とか登記書といったものになるかな。両方トップは執事です。政所注意。

室町幕府の地方統治と足利氏のリーダーシップ

先ほど、義詮は強力なリーダーシップを取ろうという話をしました。ただ、それができたのかというと、実は全く取ることができていません。室町時代を理解する上で、これはとても大事なポイントです。

南北朝の戦乱期の中で、有力な武士というのがたくさん生まれていました。後醍醐天皇を黙らせて武士中心の世の中に戻したあと、別に足利がトップにいること自体はいいけど、すごく尊敬しているかといったら、そんなことはなかったのです。

あくまでも尊氏は戦うことしかできないし、それによって不毛な観応の擾乱がおきたわけ。義詮もバカでは決してないけれど、猛者を従えるほどのカリスマ性はありませんでした。

なので、いくら評定衆の上に管領を置こうとも、結局室町幕府は大名連合の上に将軍が置かれている政権だったのです。前回、細川頼之を辞めさせろと大勢で迫ったという話も、義満が徹底的に他人を滅ぼしていくのも、これが根本的な理由でした。

話がそれたけど、幕府が京都から全国を統治するなんてことはできませんでした。そこで各地方に組織を作り、大幅な自治権を認めたのです。今っぽく言えば地方分権。具体的に作られたのが鎌倉府・奥州探題・羽州探題・九州探題です。

鎌倉府

地方に作られた組織の中で、圧倒的に重要なのが鎌倉に置かれた鎌倉府です。変な言い方だけど鎌倉は武士の本場。京都と同等かそれ以上に強力な大名が揃っていました。したがって、幕府と同じような仕組みがここでも必要だったのです。

そこで、鎌倉にも鎌倉公方関東管領という【将軍&管領】の関係を作ります。もちろん一番のトップは京都にいる将軍だけど、まるまる同じ仕組みが国内にもう1つあるという変な状態でした。

鎌倉府のトップである関東公方(くぼう)、初代は足利基氏(もとうじ)という人です。尊氏の息子で義詮の弟になります。もともとは義詮が鎌倉にいたんだけど、将軍になるために京都に移り、代わりに弟が鎌倉に置かれました。

関東管領には上杉氏が世襲しました。世襲というのは親から子へ代々受け継がれて、違う人がなることがないという意味。昔の郡司と同じだね。この上杉氏というのは、尊氏のママの実家で、最終的には上杉謙信となります。

奉公衆

この状況に我慢できなかったのが「俺はエラいんだ」と勘違いして育ってしまった前回登場の足利義満くんです。爺やを辞めさせろと言われるし、実際、2代目の関東公方がもう将軍の座を狙って反乱を起こしたりしています。

ここから義満の「全てを手に入れてやる」行動が始まるのです。何かをするためには力が必要、そう思った義満は自分の近衛兵を作ります。完全に自分が戦うための兵隊です。これを奉公衆と言いました。

奉公衆自体は一応幕府創設当時からありました。もともと尊氏の部下だった人が幕府の中に組み込まれてこう呼ばれたのです。ただ、そのときは300人くらい。ところが義満のときは3000を超えるくらいまで膨れています。

どうやってこんなに増やしたかというと、自分に忠誠を誓ってくれる武士を全国から選び、常に周りにいてもらえるように幕府周辺の土地を与えたのでした。美濃の乱や明徳の乱で勝ったのも、こういった戦力のおかげだったのです。

守護

最後に守護の話です。鎌倉時代に引き続き、室町時代にも守護・地頭がいました。ただ、守護になったのは先程から言ってるように強くなった大名だし、そのため役割も増え、より力をつけていきます。

守護大名への成長

鎌倉時代の守護には3つの仕事がありました。謀反人逮捕・殺害人逮捕・大番催促で、合わせて大犯三箇条と言いました。室町時代ではこれに2つ追加されます。苅田狼藉権(かりたろうぜきけん)と使節遵行権(しせつじゅんぎょうけん)です。

苅田狼藉権は稲を盗んだやつを逮捕する仕事です。要は強盗の逮捕。使節遵行権は幕府の裁定の強制執行。今までは借金の返済を催促するだけだったのに、力づくで取り上げることができるようになりました。

守護が強くなってくると、その支配地域内での税金徴収が変わってきます。これまでにも半済令が出されていました。荘園から得られる税の半分を守護が持って行っていいというものだったね。

これに加えて守護請(しゅごうけ)というやり方も出てきます。これは守護が荘官と代わりとなるもので、「とりあえず全部僕に集めてください。僕が本所に届けます」というやり方です。

それにどんな意味があるの?って思うかもしれないけれど、守護は強力な力を持っているのです。本所に届けるわけないじゃんってこと。こうして守護はどんどん力をつけ、徐々に守護大名と呼ばれるようになっていきます。

3管領と四職

室町幕府の仕組み、最後に三管領と四職(ししき)という言葉を覚えておきましょう。管領と侍所所司、この2つは決まった家の人しかなることができませんでした。それが管領には3氏、侍所所司は4氏だったのです。

三管領は畠山斯波細川です。細川頼之が降ろされて斯波義将になったという話をしました。これにもう1つ畠山氏が加わります。

四職は京極氏・山名氏・赤松氏・一色氏です。この時代の侍所は京都警備が仕事という話をしました。なので僕は「京都の山は赤一色」と覚えてました。以上が室町幕府の仕組みでした。

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