室町時代⑤〜4代将軍足利義持、パパとの対立と日明貿易の話

室町幕府4代将軍、足利義持の時代についてまとめます。将軍は義持になっているけど、まだ義満が亡くなったわけではありません。義満が何をしていたのか、これを理解することがこの時代の鍵となります。

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足利義持の頃の主な出来事

〈1399〉応永の乱
〈1399〉日朝貿易開始
1401〉遣明船派遣
1404日明貿易開始
1411〉日明貿易中断
〈1416〉上杉禅秀の乱
1419応永の外寇

何故、義満は坊主なのか?

いきなりだけど、足利義満の顔をイメージできるでしょうか?自信ある人もない人も、「足利義満」で画像検索してみてください。こちらで一発でいけます。

いかにも将軍っぽい格好をしているものもあるけれど、坊主になっているものの方が多いと思います。つまり、義満は出家をしてるんですね。

何で出家したのか、出家後はどうなったのか。これを理解しないとこの時代は理解できません。そしてこの「なぜ」の部分が義満の回で触れた「天皇になりたかったから」になります。

では、「天皇になりたいから出家した」というつながりを話す前に、そもそも義満が天皇になろうと思った3つの理由からみていきましょう。

天皇の地位が地に落ちていた

この時代は天皇の権威がドン底になっていました。皇統が分裂したり、後醍醐天皇が意味不明な政治をしたりで、義満はもちろん、世間の空気も「さすがに尊敬できないわ!」となっていたのです。これが1つ目の理由。

天皇である従兄弟はイジメ対象

2つ目の理由は天皇との距離感です。義満のパパはもちろん2代目の義詮ですが、ママは貴族の人でした。しかもその妹はこの時代の天皇である後円融天皇のママ。つまり義満は天皇と従兄弟同士だったのです。

しかもしかも、2人は同じ年で、偉そうな義満に対して後円融天皇は気弱な坊っちゃん体質でした。ジャイアンとのび太くん的関係で、昔からバカスカいじめています。いじめているうちに、コイツより俺が天皇に相応しいと考えるようになったのです。

天皇家の終わりを予言する書

3つ目、義満が「天皇に俺はなる!」と思った決定的な理由は、実は古事記にありました。その序文に「天照大神が頑張って百王続く礎を築いた」的な内容が書かれていて、この「百王」という単語が物議を醸すのです。

「百獣の王ライオン」、これが100種類を意味するわけでないことは常識でしょう。この百王も「100人続く王」ではなく、「今後永遠に続く王家」という意味です。ただ、どうしても文字通りの解釈を恐れる感覚も、世の中にはありました。

そして、当時の天皇の数え方では、なんと後円融天皇が100代目の天皇だったのです。「天皇家はあの弱っちい従兄弟で終了。これからは俺様が天皇、ちょうどいいじゃん。まさに神のお告げみたいなタイミングよね!」と義満は思ったわけです。

義満が考えた天皇になる方法

天皇を狙ったのは分かるとして、じゃあ具体的にどうやってなるのか。これが1番重要です。圧倒的な金と力はもちろん必要だけど、あくまでも征夷大将軍は天皇にもらった地位。その立場で脅してしまったら反逆罪になってしまいます。

ここで義満が思いついたのが「出家」という方法でした。出家=世間から外れた存在になること。つまり天皇を頂点とする社会のルールからも外れることになります。上下関係がないので何をしてもいいという論理を作り上げたのです。だから坊主なわけ。

こういうわけで、義満が生きている状態で将軍が息子の義持に代わります。でも義満が力を示し続けるので、義持はまだ何も力を行使できません。長くなったけど、ここまでが今回の話の前提でした。

では、一気に主な出来事をまとめます。くり返しになってしまいますが、やっているのは義満だけど、将軍は4代義持の時代です。将軍義満の時代に行われたと言われたらバツですから気をつけましょう。

出家した義満による政治

応永の乱

義満は現役(?)の間に邪魔者を滅ぼしていました。美濃の乱で土岐康行を、明徳の乱で山名氏清をだったね。このタイミングでもう1人、大内義弘という人を滅ぼします。1399年、応永の乱です。中国・北九州の6カ国を支配する大名でした。

日朝貿易の開始

続いては日朝貿易です。自分が将軍だったころの最後に朝鮮という国ができました。さっそく貿易を始めるわけなんだけど、このときは倭寇という海賊が暴れていました。そのため、お互いに身分を確かめるためのサインとして通信符というのを持っています。

また、この日朝貿易は対馬の宗貞茂(そう・さだしげ)という人が仲介に入って実現しました。以降、対馬といったら宗氏というのを覚えておいてください。700年以上にもわたって代々統治した、本当に珍しい家です。

日明貿易

出家した義満がやった最後のことは日明貿易です。これが義満が天皇剥奪のために仕掛けた最大の行動。日朝貿易に引き続きという流れに見えるけれど、この2つは意義が全く違います。

この日明貿易は民間貿易の日宋貿易と違い、明と国交を結んで行った公式な貿易でした。公式である点では日朝貿易と同じだけど、中国と正式な国交を結ぶことは、つまり中国の手下になることを意味します。それが中華思想です。

なぜ全てを手に入れた義満が中国の傘下に入るなんてことをしたのか。それは貿易でガッツリ儲けようという意図の他に、外国パワーを使って国内の敵を倒そうと思ったからでした。

祖阿と肥富を派遣

明と国交を結ぶために、まずは側近の祖阿(そあ)というお坊さんを明へ派遣します。また、これは貿易をすることが前提なので、アドバイザー的な役割として商人の肥富(こいずみ)という人も同行しています。これを遣明船の派遣と覚えてください。

日本国王臣源道義

この2人に託した書に、義満は自分の身分を「日本国王臣源」と書きました。「臣」は中国の子分という意味で、「中国に従う日本を治める源氏の者」となります。足利はもともと源氏だったね。源氏の方が貴族っぽくて受け入れられやすいんです。

ただ、明は最初全く取り合ってくれませんでした。すでに懐良親王を日本のトップと認めていたので、義満を偽物扱いしていたのです。それを見て学んだ義満は「日本国王臣源道義」と改めます。「道義」というのは出家した名前です。

何故これならOKなのか。ローマ法皇を知っているかな?法皇というのは日本で言えば出家した天皇のことで、この場合も「あ、出家した国王なのね、ならOK♪」となったのでした。

日明貿易の開始

無事に国交が結ばれ、1404年に貿易が始まります。倭寇と区別するために、明から送られた勘合符を持った日本人が寧波(にんぽー)という場所で入国審査みたいなチェックを受け、その後北京で実際の取引をするという形式でした。

義満暗殺

南北朝合一を読んでくれている人は、この義満がやったことって危険な行為でしょと思ってくれるのではないでしょうか。懐良親王がやった外国パワーに頼る行為は絶対にやってはいけないことだったという話をしたからです。

義満が後のことをどう考えていたかは分かりません。けど、絶対にやってはいけないことをやってしまったのは確か。こういう人には必ず世の中の正義という罰が下ります。

本当に天皇になるかもというタイミングで、義満は急死します。

天智天皇のヤバさに天武が立ち上がったように、あるいは藤原仲麻呂のヤバさに称徳天皇が戻ってきたように、おそらく義満も消されたのでしょう。

足利義持の政治

義満が消され、ようやく将軍である足利義持が政治を行えるようになります。この人は義満の長男ですが、義満とはお互いに対立をしていました。逆に弟の方が義満と仲良しだったのです。

日明貿易の中断

義持が最初にやったことは、もちろん日明貿易を止めることです。日明貿易は必ず日本が明に行くので朝貢貿易と言いますが、これを屈辱として辞めたみたいな書かれ方をします。でも単純にそれだけのことでないことは分かってもらえるでしょう。1411年のことです。

上杉禅秀の乱

続いて起きたのが上杉禅秀の乱(うえすぎぜんしゅう)です。関東管領だった上杉禅秀という人が、仕事が雑だった鎌倉公方足利持氏に「もうちょっと考えようよ」と言ったら、「うっせえ」と言って辞めさせられてしまいます。もちろん禅秀はフツフツしてました。

それに目をつけたのが、義持の弟の義嗣でした。義満に愛されながら将軍になれなかった男です。上杉禅秀に「いやいや、明らかに正しいのはお前だろ。そんな鎌倉府なんて倒しちゃえ。応援するよ」と言って反乱をそそのかします。

義嗣の狙いはもちろん、上杉禅秀を使って鎌倉府を手に入れ、兄を倒すこと。実際に禅秀は足利持氏を追い出すことに成功しますが、義嗣自身が京都で捉えられ、斬首の刑に合います。一時はビビったけど、それで終わったという乱でした。

応永の外寇

義持の時代、最後は1419年の応永の外寇です。「寇」という字は外国から攻められること。朝鮮が「倭寇は対馬に基地を作っている。それを倒すのじゃ!」と言って攻めてきました。

ただ、この倭寇討伐は完全に名目上で、実際はただの侵略です。何故かというと、対馬の守護が不在のときを狙ってやってきたから。でも、結局は対馬の兵の抵抗と台風に襲われ、呆気無く撤退していきます。これを機に日朝貿易は一時衰退しました。

以上が義満の後半と義持の時代でした。今回も話は長くなってしまったけど、義満がどういう奴なのかを一度理解できたら後はビシっと流れがつかめると思います。義持の時代は応永に始まり応永に終わる、そんなこともちょっと覚えておきましょう。

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