平安時代⑤〜承平・天慶の乱勃発、朱雀・村上・冷泉・円融天皇の話

政治の話に戻って醍醐天皇の続きの話をしていきます。今回まとめるのは朱雀・村上・冷泉・円融の4人の天皇の時代。タイトルには承平・天慶の乱を書いたけど、藤原氏による他氏排斥が完了する、すごく重要な時期でもあります。

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朱雀・村上・冷泉・円融朝の主な出来事

935平将門の乱
939藤原純友の乱
958乾元大宝鋳造
969安和の変by源高明

朱雀天皇

醍醐天皇の次は息子の朱雀天皇。実権を握ったのは、こちらも醍醐朝で力を持っていた時平の弟、藤原忠平でした。「朱雀=承平・天慶の乱」、これがこの時期の全てです。

土地制度後半の話を復習をすると、地方では国司がやりたい放題し、それに住民がムカついて抵抗するという状況でした。その状況が続いていた中、この朱雀朝のときに抵抗を超えたガチな反乱を起こした人が2人いました。

承平・天慶の乱

平将門の乱

平将門(まさかど)と藤原純友(すみとも)です。 まず平将門の乱935年に北関東の国府を襲って反乱を開始します。そして新皇と名乗ります。

要は天皇が国を統治するなんてムリ、これからは俺が頑張るよ!っていう宣言です。

ただし、残念ながら鎮圧されてしまいました。鎮圧したのは平貞盛(さだもり)と押領使藤原秀郷(おうりょうし・ひでさと)の2人。ちなみに将門は国府を襲った際に叔父の平国香という人を殺していました。貞盛はその息子になります。

将門の本拠地猿島(さしま)を覚えておきましょう。これは下総国、今の茨城県にある地域の昔の名前です。神奈川県の横須賀に同名の無人島があって、都心にいる大学生とかよくBBQしたりするけど全然違うところです。

藤原純友の乱

次に藤原純友の乱。こちらは939年に瀬戸内海で反乱を起こしました。この人のエピソードとしては2点、元伊予掾であることと、海賊を率いたことを知っておきましょう。

「掾(じょう)」は国司のNo.3。四等官制を覚えているかな?もともとは国司側の人間だったのに、任期が終わった後は土着して住民側に回った人です。伊予というのは今の愛媛県。この旧国名が由来となっている果物が「いよかん」ですね。

今回の鎮圧者も2名、追捕使小野好古(ついぶし・よしふる)と源経基(つねもと)です。さっきの押領使も追捕使も、警察的な仕事をする令外の官の1つです。こちらの本拠地は伊予の日振島(ひぶりじま)というところでした。

この2つの反乱は結果的にはすぐに鎮圧されました。ただ、これは2人が弱かったからではありません。反乱自体が日本で初めてのことで、誰も反乱の起こし方が分からなかっただけのこと。多くの人に指示されていたのは間違いありませんでした。

京の方もちょっと危ないと感じていろいろな方法でこれの鎮圧に当たりました。そういう空気も含めてこの2件を承平・天慶の乱と呼びます。平将門の乱を承平の乱と呼ぶわけじゃなくて、あくまでも2つをセットでこう呼ぶことに注意しましょう。

村上天皇

朱雀の次は弟の村上天皇。忠平が亡くなったあと、特に摂関を置かなかったために親政となりました。寛平・延喜につづく3つ目の親政、天暦の治(てんれきのち)と呼びます。

ただし、藤原氏自体はたくさんいるし、またパパの朱雀上皇もイチイチ口出ししてくるような状況だったので、村上自体はたいしたことはできませんでした。できたのは1つだけ、958年の乾元大宝鋳造です。和同開珎のところで触れたよね。

今さっき述べたように、先代の朱雀は承平・天慶の乱でけっこう出費をしました。政府に金がねえという状況だったので、新しいお金を発行したのです。この乾元大宝は皇朝十二銭の最後ということでも大事なお金なので押さえておきましょう

冷泉天皇

村上の次は息子の冷泉天皇。冷泉朝はかなり大事です。というのも、ここで藤原氏の権力が絶対になるから。当時、京で権力を争っていたのは藤原氏と源氏でした。「え、源氏って頼朝以前もいたの?」って思うはずなので、その背景を。

源氏とは?

次の鎌倉時代を作り上げた人が源頼朝。このほぼ日本人にとって常識となっている知識から、多くの人が源氏は最初から武士だったと思い込んでいると思います。でも本当は、天皇を祖先に持つ超レベルの高い貴族でした。

平安時代3人目の天皇である嵯峨天皇、実はこの人、奥さんがたくさんいて、その結果なんと子どもが50人もいるんです。これは単に不倫ヤローだったというわけではありません。大真面目な理由がありました。

嵯峨朝の最初の出来事は薬子の変でした。兄の平城が薬子にそそのかされて反乱を起こした事件。この事件から嵯峨は、「天皇家の力って、たった1人の人によって揺らぐくらい、実は脆いものなんだ」ということを痛感したのです。

そこで、天皇家の力を強めようとします。その方法として選んだのがとにかく自分の血を受けついだ子どもをたくさん作ること。そしてその子たちをどんどん政治に抜擢することでした。周りを固めるってことね。

ただし皇族が何人も大臣などにいると、コネ社会になってしまって返って他の貴族たちとうまくいかなくなってしまいます。それに皇族がたくさんいるとそれだけで財政を圧迫するので、皇族自体は少ない方がいい。

そういったことから、子どもたちを皇族から外して藤原氏などと同じ臣下にしてしまうことをしました。同じ貴族なので「実力があるから登用しました」と主張できるのです。

このようにして嵯峨天皇は自身の血縁を使って他者が口を挟めないような仕組みを作ったのです。ただし、結局これはすぐに良房によって崩されてしまいました。良房はそれほど政治の天才だったのです。

ちなみに、皇族から外す際にやらなければならないことがありました。「姓」を与えることです。天皇家には苗字がありません。嫌でしょ実は天皇の本名は鈴木さんですとか言われたら?

ただ、臣下であれば苗字がなければいけない。この皇族から外れた子どもたちに与えられた苗字が「源」なのです。 最大の権力は藤原氏に持って行かれたけど、着々と優秀な人を出し、再び藤原氏の最大のライバルにまでなっていたのでした。

安和の変

ということで、藤原氏vs源氏の権力争いが続いていました。そして藤原氏が勝ちきったのがこの冷泉天皇のころでした。969安和の変。関白の藤原実頼(さねより)が左大臣の源高明(たかあきら)を謀反の疑いで左遷します。

藤原氏による6つ目の他氏排斥事件。左遷された場所は前回の昌泰の変に続き、太宰権帥です。これでライバルは完全に排除され、これ以降、摂関が常時設置されることになります。

ついでに密告者も覚えておきましょう。源満仲(みつなか)です。いやいや、コイツ源氏のくせになんだよって話だけど、高明とは違う源氏でした。源氏にも誰天皇が臣籍降下させたかによっていろいろな系統があって、お互い他人だったのです。

円融天皇

冷泉天皇の次は弟の円融天皇がなりました。この時期は何も起こっていません。何故かというと、実権を握ってる藤原氏が家族内戦争を起こしていたからです。

今までは藤原氏以外の人が力を持つと、藤原氏全員でそれを叩きにいきました。でも今はそれがいない。だから藤原氏の中で誰が一番エラいのかという争いになるのです。

この一族で最もエラい人、これを氏の長者といいます。ここで勝ち上がるのが、結果的には次に出てくる藤原道長となります。

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