平安時代②〜蔵人所&検非違使設置、平城・嵯峨天皇の話

平安時代の2回目。 今回は桓武天皇の2人の息子、平城天皇と嵯峨天皇の話です。

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平城・嵯峨朝の主な出来事

810蔵人所設置
810薬子の変
〈811〉文室綿麻呂が蝦夷平定
〈816〉検非違使設置
〈820〉弘仁格式
〈823〉公営田設置

平城天皇

桓武天皇の次は平城天皇です。読み方が「へいぜい天皇」なので気をつけよう。桓武バトンを渡したかった、あの病弱な息子です。そのために弟の早良親王を滅ぼし、それから怨霊にビビっていく話を前回しました。

平城天皇は自分が病弱だったためか、安定感のある熟女が大好きでした。そして1人のオバちゃんにハマります。藤原薬子(くすこ)、5人の子を持つ人妻です。旦那を太宰府のトップに昇進させる形で遠くに飛ばしてしまいました。

自分は身体が弱くて最近特にダルいし、べた惚れしてる女性もいるし、天皇はもういいやと思いはじめます。その結果、息子を皇太子にするのと交換条件に皇位を弟に渡しました。

嵯峨天皇

譲位した平城は平安京から平城京に引っ越してのんびり暮らします。「平城天皇」という名前になったのはこれが理由。今と違って、昔の天皇は後から名前がつけられたことは前にも話したと思います。

薬子の変

ただ、そんな生活に薬子は満足しませんでした。兄の藤原仲成と一緒になって平城をそそのかし、平城京遷都令を出させます。すでに天皇ではない上皇による越権行為。

もちろん嵯峨天皇がこんなことに従うはずはありません。これを反乱と認定し、首謀者として仲成を処刑。それを受けて薬子も自殺してしまいました。この事件を薬子の変と言います。810年のこと。

ちなみにこの薬子・仲成兄妹は桓武朝で暗殺されてしまった種継の子になります。パパが頑張って作った長岡京からあっさり移った平安京が嫌いだったのでしょう。種継の子なので式家です。

蔵人所の設置

薬子についてもう少し話します。天皇の子や妃が生活するところを後宮と言いました。大奥の天皇バージョンで、そこには天皇の家政婦的存在の女性たちがたくさんいます。

よく女性に囲まれていることをハーレムと言いますが、オスマン帝国の後宮をharemといったことに由来します。

後宮にいる女性たちはそれぞれに役割分担があり、中には天皇の言ったことを下に伝える秘書的な役割の人たちがいました。嵯峨天皇が即位したばかりのころのそのトップこそが、薬子だったのです。

当然平城側の薬子は嵯峨天皇の言づてを下の者に伝えなかったり、あるいは勝手に平城の言葉を伝えたりしました。これによって嵯峨天皇は仕事が進まずに大変困ります。

そこで嵯峨天皇は薬子の変と前後して正式な秘書課を設けました。蔵人所(くろうどところ)です。秘書課長を蔵人頭(くろうどのとう)、その他の秘書たちを蔵人と言いました。

蔵人頭には薬子の変でも的確にアドバイスをしてくれた藤原冬嗣(ふゆつぐ)と、巨勢野足(こせののたり)が就任します。冬嗣は北家の人間。ここから先、平安時代は藤原氏が栄華を極めますが、全てこの冬嗣の子孫。野足は軍人です。

文室綿麻呂が蝦夷平定

巨勢野足は坂上田村麻呂が征夷大将軍になった際の副将軍でした。この蝦夷征討は前回も言ったように徳政相論によって途中で中止となります。ただしキリがいいところまではやっておきたいですよね。そのキリがついたのが811年のことでした。

田村麻呂は残念ながらこの数ヶ月前に死んでおり、急遽次の将軍として昇格していた文室綿麻呂(ぶんやのわたまろ)が平定を完了させます。

検非違使設置

嵯峨天皇は2つの令外の官を作りました。1つが先に話した蔵人所。もう1つが検非違使(けびいし)でした。お仕事内容は京都の治安維持をする警察官です。

この仕事がこれまで無かったわけではもちろんありません。ちゃんと京識という職が律令制度の中にありました。じゃあどうして改めて作ったのか。実は同じ仕事なのに、やっている人が違うんです。

律令制度で規定された職は、全て貴族が担うものでした。要は自他ともに認める高貴な人たちです。そんな人たちが死体処理みたいなことをやりたがらないに決っているでしょ。特に当時はケガレの概念に超超超敏感。

たとえ任命されても実際にその職務を全うする人なんて皆無だったのです。もちろん気持ちは分かるけれども、誰かがやってくれないと治安がとんでもないことになります。

一方、別に高貴な身分ではない人なら、たとえケガレてもやりたいという人はたくさんいました。何でもいいから仕事が欲しい人たち。こうして一般人を警察官とするための職を作ったのです。後々、この人たちが武士となっていくんだよ。

弘仁格式

前回と今回で3つ新しい職業の話をしました。こうして律令制度からできてからいろいろな変化が加わっています。ちょっとまとめ直した方がいい。そう思った嵯峨は冬嗣に作ってよと言います。これが当時の年号を取って弘仁格式と言いました。

嵯峨朝ではもう1つ、公営田(くえいでん)という太宰府の土地の話があるんだけれど、これは土地制度のときに回します。

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