平安時代③〜藤原良房が摂政に、淳和・仁明・文徳・清和天皇の話

平安時代の3回目。今回は藤原摂関政治を作った男、藤原良房の話です。

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主な出来事

〈833〉令義解完成by清原夏野
842承和の変by橘逸勢伴健峯
〈858〉藤原良房が摂政となる(実質的)
866応天門の変by伴義男・紀氏 →正式に摂政就任

淳和天皇

令義解完成

嵯峨天皇が譲位し、弟の淳和天皇(じゅんな)が即位します。兄ちゃんが律令制度にいろいろ増えた格や式をまとめた弘仁格式を出すと、今度は弟がその律令制度を分かりやすく解説した注釈書の作成を命じました。令義解(りょうのぎげ)です

国(文科省)の認定を受けたもので、読めば歴史が一通り分かるようになる点で、学校の教科書みたいなものと思っておけばいいかな。養老律令の内容限定だから注意。編集長は清原夏野(なつの)という人。これもちゃんと覚えておきましょう。

令集解

一方、僕がこうやって日本史を書いているみたいに、個人が勝手に作った解説本というのもあります。それは令集解(りょうのしゅうげ)と言って似ているけど違うもの。これは惟宗直本(これむねのなおもと)という人が作りました。セットで。

仁明天皇

淳和天皇の次は仁明天皇(にんみょう)です。この人は淳和ではなくその前の嵯峨天皇の息子。嵯峨兄ちゃんに皇位を譲ってもらったお返しとして、淳和も自分の子ではなく嵯峨の子に皇位を譲りました。

このように、嵯峨&淳和兄弟は仲がよく、また息子同士もとてもいい関係でした。だから仁明も皇太子を淳和の子にし、次の天皇にしてあげるつもりでいました。ただ、このちょっと変則的な皇位継承につけ込んだ男が登場します。

藤原良房登場

淳和の子が天皇になることを嫌がった人がいました。仁明のママであり、嵯峨の皇后だった人です。結果的に仁明天皇が誕生したからよかったものの、「いや、(私が産んだ)仁明の子どもたちがずっと天皇でいいじゃん」って思っていました。

奈良時代で光明皇太后が藤原仲麻呂に大きな権限を与えたように、天皇のママはやる気を出せば大きな力を持つことができます。そしてこの仁明のママが大きな不満を持ってることを嗅ぎつけたのが藤原良房でした。

良房は藤原冬嗣の息子であり、また妹が仁明天皇の皇后だったので、ポジション的にはとてもいいところにいた人。ただ、当時はまだ中納言であり、権力としてはまだまだのところ、自分より上にいる者を消したくて仕方がない状況でした。

そこで藤原仲麻呂のように皇太后と親しくなり、「こんなシナリオいかがですかね?そうすれば仁明天皇の子が次の天皇にならざるをえないですよ」というストーリーを作ります。

承和の変

それが実現したのが842年の承和の変。皇太子の恒貞親王(つねさだ)が有力貴族を使って反乱を企てているという密告が出てきます。もちろんそんな事実はないのに、良房がいろんな証拠をでっち上げているので、無実を証明できませんでした。

これによって恒貞親王は皇太子剥奪。そして一緒に企てた有力貴族として、良房のライバルである橘逸勢(たちばなのはやなり)と伴健岑(とものこわみね)が配流になりました。ただ仁明天皇の意思に従っただけなのに。

こうして予定通り皇太子の権利は仁明の子、つまり良房にとっては甥である道康親王(みちやす)に移ります。

藤原氏の他氏排斥事件

藤原氏はこのようにして、ライバルをどんどん消していきました。飛鳥時代に中大兄皇子がやったお掃除と同じような話で、他氏排斥(はいせき)事件と言ったりします。

失敗に終わったけれど薬子の変もこの1つとしてカウントされることが多いので、この承和の変は藤原氏の2つ目の他氏排斥事件となります。

文徳天皇

承和の変で皇太子となった道康親王が即位して文徳天皇となります。当然良房のおかげで天皇になったわけだし、良房の娘を嫁にもらってもいたので、良房としては当然自分の言うことを聞いてくれると思っていました。

でも文徳は良房の娘よりも他の女性を愛していました。したがって皇太子もそっちとの間にできた子にしようとします。良房としてはこれを認めるわけにはいきません。強引に自分の娘との間にできた子を皇太子にします。

天皇の権力を借りて威張るくせに、天皇の意見が気に入らないとそれを強引に変えることができる、承和の変で上に上り詰めていた良房は、このときそういう力を持っていました。

もちろん文武はこれにイラっとしたはず。ただ、このあと文武は急死してしまいます。どの歴史書にも書いてありませんが、この死に関わっている人は明らかでしょう。

清和天皇

858年、良房の孫が天皇になりました。清和天皇です。即位時の年齢は9歳。まだ子どもなので誰か代わりに政治をやってあげなければなりません。こうして良房が人臣初の摂政となります。

一応このときはまだ天皇が小さいから勝手に代わりにやっているという状況でした。なので実質的摂政就任とか言ったりします。この地位を確固たるものにするためには、残りの有力貴族を滅ぼす必要がありました。

応天門の変

そこで起きたのが応天門の変866年です。応天門に放火したとして伴善男(とものよしお)・紀豊城(きのとよき)・紀夏井(なつい)の3人を配流します。

この事件は藤原氏によるお掃除の3件目。事件発生当初は源信(みなもとのまこと)が疑われたんだけど、最終的には無罪になったということをちょっと覚えておいてください。

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