平安時代①〜長岡京&平安京遷都、桓武天皇の話

平安時代に入ります。今回から1000年の古都、京都の話が始まります。まずは桓武天皇がなんで都を移したのかについて。しかも2回もという話からしていきたいと思います。

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桓武朝の主な出来事

784長岡京遷都
〈766〉藤原種継暗殺事件
〈792〉健児の制
794平安京遷都
〈797〉勘解由使設置
〈797〉坂上田村麻呂を蝦夷征討に派遣
〈805〉徳政相論

桓武天皇

平安時代最初の天皇が桓武天皇です。奈良時代最後の天皇である光仁と朝鮮からの渡来人を祖先に持つ高野新笠(たかののにいがさ)との間に生まれた、天武天皇の血が全く入っていない天皇です。

天武の血を継いでいないのは光仁も同じでした。ただ、皇后を始めとして周りに天武系の人がたくさんいました。だから自分はおとなしくしていて、本格的な改革は息子の桓武に任せたのでした。

長岡京遷都

その桓武は改革の一番手として天武系の人たちから距離を置きました。それは単純に仲良くしないという意味ではなく、物理的に距離を置く、つまり引っ越しをしたのです。784年、平城京@奈良から長岡京@京都への遷都です。

この引っ越しは、「①奈良の仏教勢力と離れるため②水陸交通の便がよかった」という2つの理由があって行われたと教科書に出てきます。でも、それは道鏡が悪人であるという勝手な偏見をもとに作られた歴史。

本当は先に言ったように天武系勢力から距離を置くために行ったことであり、道鏡も道鏡なりに国のためを思って頑張っていたのは前回話したとおりでした。ちなみに、このときの京都は山背国(やましろのくに)と言います。

藤原種継暗殺事件

この遷都、当たり前ですが反対する人がたくさんいました。藤原氏以外でもそれなりの権力を持っている人はたくさんいたからです。そのため785年に新しい京の造営責任者(造宮司(ぞうぐうし))の藤原種継が暗殺されてしまいます。

種継は光仁天皇のときから活躍していましたが、桓武天皇にとってもブレーンの1番手、本当の意味での右腕でした。これは桓武にとっても大ダメージ。ただし、タダでは転ばなかったのがトップに必要な能力です。桓武はそれを持っていました。

本当の犯人を探すのではなく、邪魔な奴を犯人だと言って無実の罪を着せて処分したのです。お掃除の理屈に使ったんですね。掃除されたのは奈良で絶大な権力を持っていた早良親王(さわらしんのう)、自分の実の弟でした。

なぜ邪魔だったかと言うと、パパの光仁が桓武に譲位すると同時に、皇太子、つまり桓武の次の天皇も決めてしまっていたのです。それがこの早良親王。もちろん、これは安定を図るためです。

ただ、やっぱり息子にバトンを渡したいのが桓武の想いだった。だからこの事件を利用して淡路島へ配流のかたちで消したのでした。ちなみに本当の犯人は大伴継人(つぐひと)という人だと言われています。

しかし、これは結果的には大失敗でした。運悪くこの直後から桓武の周りで連続して不幸が起こります。まず奥さんの1人が亡くなったのをきっかけに、母が死に、皇后が死に、そして肝心の息子がひとく病弱になったのです。

「なんでなんだ!」と思って陰陽師に相談すると、「あ、それは早良親王のタタリですわ」と言われます。ここまで何回も言ってきたけれど、当時は今と違って科学なんてありません。

今では半分ギャグに思えてしまうときもあるけれど、当時は呪術的なものこそがそのポジション、つまり信じざるをえないもの。無実の罪で憤死した早良親王が怨霊になってしまったと本気で思ったのです。

そのため、大金を使って作った長岡京をたった10年、しかも作りかけのところで捨て、794年、平安京にさらに引っ越すのでした。とにかく怨霊から距離を置くのが最優先なのです。

健児の制

平安京の話に行く前に、もう1つ桓武が長岡京時代にやったことに触れておきます。792年に出した健児の制です。「こんでいのせい」と読みます。一発で読める人はいないでしょう。

平安時代は、世界史の中で見てもかなり特殊な時代でした。何故かというと、軍隊を持っていなかったからです。これは本当にありえないことで、実際に平安末期はかなり不安定な時代が続きます。

もともと律令制度の中には徴兵があり、成人男性の1/3は軍隊所属でした。この軍隊のことを軍団といいますが、これを廃止し、代わりに各地域にいる郡司の子弟を兵士にしといてねというのが健児の制の内容です。

この人たちがいるんだから軍隊が無いというのは言い過ぎのようにも感じますが、警察署が全て交番になったようなもんであまりにも縮小してしまったのです。軍隊は無かったと認識しておいてください。

ただし、東北と九州には軍団を残しました。もちろん蝦夷とかがいるからです。

平安京遷都

平安京遷都の話に戻ります。794年、鳴くよウグイス平安京とか言ったりしますが、大事な年号なので覚えておきましょう。ここから1868年の明治元年まで、ほんの一時期を除いてここが日本の京になりつづけます。

場所は長岡京のちょっと北東に行った同じ京都内、ただし山背国から山城国と改名をしています。引っ越しの理由は教科書的には長岡京で疫病や洪水被害が起きてしまったからというものですが、これもまた的を得てない。

実際は先の述べたように早良親王のタタリから逃れるためです。その証拠に完璧な風水の理論に従って造営されていました。怨霊の侵入を防ぐ結界というイメージでいいと思います。

風水にはいくつかの基本思想があって、その1つが陰陽道。アドバイザーが陰陽師と言ったので、ここはちゃんとつながっています。

この平安京遷都に当たっては桓武のもう1人のブレーンが活躍しました。それが和気清麻呂です。種継と同じく奈良時代から出てくる人で、宇佐八幡神託事件のときに活躍した人でした。

平安遷都後の桓武朝の政治

平安京遷都後に桓武がやったことは4点、①民衆への負担軽減②勘解由使(かげゆし)設置③蝦夷征討④徳政相論(とくせいそうろん)です。

民衆への負担軽減

まず民衆負担の軽減は「だいたい半分」と覚えておきましょう。雑徭を60日から30日へ、公出挙の利息を5割から3割へ、班田の期限を6年から12年へと変えました。

律令制度の税制をちゃんと復習しておこうね。

最後の班田は律令制度のところで6年に1回行われるという話でした。これは頑張って土作りをしても6年たったら違う田畑に引っ越しさせられるということなんです。

するとまた最初から土作りをしたり、新しい土地の気候に慣れたりしなきゃいけない。それが結構負担でした。だから12年間同じ場所というのは、とても有り難いことだったのです。

ちなみにすごく細かいことですが、3つのうち数字が半減する前2つは795年のこと、数字が倍増する班田の期限だけは801年と時期が違います。覚える必要は全くありませんが、全部一気に変えたわけではないことだけちょっと知っておこう。

勘解由使設置

次は797年の勘解由使設置です。詳しくは土地制度に回すのでここはサラッと。今の県知事的なボジションである国司、この各地方のトップは中央から派遣をされていたことは前にやりました。

当然数年で交代になります。そのときに結構不正があったんです。交代したふりをして残り、農民から搾取しつづけるとかね。そこでその不正チェック役として新たに置かれたのが勘解由使でした。

名前の由来ですが、国司交代の際にはやはり引き継ぎ文章というのがあり、それを解由状(げゆじょう)と言ったからです。このように新たに置かれた役職を令外の官と言ったのは大丈夫かな?

征夷大将軍、坂上田村麻呂

3つ目は蝦夷征討。伊治呰麻呂によって多賀城が陥落している状態でしたが、坂上田村麻呂征夷大将軍に任命し、見事に反撃。蝦夷のトップ阿弖流為(あてるい)を破りました。

軍隊を無くすなど、基本的には平和主義の桓武天皇ですが、蝦夷は日本人じゃないからどんどん殺してよかったのです。人種差別の極み。

奈良時代、蝦夷征討の前線基地は多賀城でした。ここで新たに胆沢城(いさわじょう)と志波城(しわじょう)の2つを作ります。注意するのは胆沢城に鎮守府を移したけれども、翌年にさらに北に作った志波城には移さなかったということ。

役所は胆沢城で、出張所として志波城がある感じです。

徳政相論

最後、805年の徳政相論です。一通りやったじゃん俺と思った桓武天皇は、さらにいい国にするために、そもそも徳政(徳のある政治、つまりいい政治)って何なの?ってことを腹心たちに考えさせます。

議論したのは藤原緒嗣(おつぐ・百川の息子・式家)と菅野真道(すがののまみち)でした。ここで緒嗣が主張し、結果的に桓武も採用したのが2点。軍事(蝦夷征討)と造作(平安京造営)の中止でした。

簡単に言えば財政がヤバいから金がかかることを辞めるべきという結論です。桓武が行った2大事項ともいうべきことが、ちょっと尻窄みで終わってしまうのでした。

最後「え、えーーーー!」って感じの大逆転で終わる、これが桓武朝のお話です。

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