平安時代④〜藤原基経が関白に、陽成・光孝・宇多・醍醐天皇の話

平安時代の4回目。良房によって得た絶対的な力を一度失いかけ、もう一度取り戻すのが全体の流れです。

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陽成・光孝・宇多・醍醐朝の主な出来事

〈878〉元慶の乱
〈884〉藤原基経が関白となる(実質的)
〈887〉阿衡の紛議by橘広相 →正式に関白就任
〈891〉菅原道真が蔵人頭就任
894遣唐使廃止
901昌泰の変by菅原道真
902延喜の荘園整理令
〈914〉三善清行の意見封事十二箇条
〈918〉高麗建国

陽成天皇

良房が亡くなると、次は子の藤原基経(もとつね)に権力が移ります。子と言っても正確には良房の甥で、養子として後を継いでいました。全く覚える必要ないけどね。

この藤原氏の代交代が起こると、清和天皇も息子の陽成天皇に譲位します。当時陽成は9歳。清和パパが天皇になったのと全く同じタイミングで、したがって良房と同じように基経も摂政となりました。

この時期に起こったことは1つだけ、878年の元慶の乱(がんぎょうのらん)を覚えましょう。蝦夷が反乱を起こして秋田城を襲撃しました。これは藤原保則(やすのり)が難なく鎮圧しています。

光孝天皇

摂政は、まだ幼い天皇に代わって政治を行うのがもともとの役目。陽成天皇が元服(=成人式を迎える)し、ちょっとずついろいろなことが分かってくると、徐々に考え方が違ってきて仲が悪くなっていきました。

すると基経は強引さを発揮して天皇を交代させてしまいます。ときどきこういうこと起こるけど、何でそんなことができたのかは目下勉強中です。もう少しお待ち下さい。

新しい天皇は光孝天皇、基経の従兄弟でした。この人は陽成の子とかではないので、天皇になれると思っていません。基経には感謝感謝で政治を全てお任せ。こうして成人の天皇に代わって政治を預かることになります。実質的に関白就任です。

宇多天皇

光孝天皇の次は息子の宇多天皇が即位しました。この人はヤル気もあるし能力もあったので、自分で政治をやろうと考えました。もちろんそうなると基経とは衝突してしまいます。

阿衡の紛議と関白就任

ただ、役職の任命権があるのは天皇側。そこで、一応トップにいてもらいながら、実権は渡さないよという辞令を基経に出しました。阿衡(あこう)、名誉なんちゃらみたいな、エラいけど権限は特にないポジションへの任命です。

何で関白じゃなくて阿衡なんて言えたのかというと、関白という言葉自体がこの時点ではまだなかったからです。だからさっきも実質的という言い方をしました。

ただ、もちろん基経もこの「権限はない」という意味を理解しています。イラッとした基経は黙りこむ作戦に出ました。本当に何もしない日々をしばらく続けるんです。

すると、何をしても最終的なOKのハンコを押してもらえないので、政治が完全にストップするという状態になってしまいます。これには宇多天皇も困ってしまい、最終的には「分かった、関白になってくれ」と言って折れました。

これをもって、初代関白への正式な就任となります。ちなみに、天皇が臣下の者に「ごめんなさい」とはなかなか言えません。プライドもあるし。そこで阿衡任命を提案したとして橘広相(たちばなのひろみ)を処罰することでこれを収めました。

この人も当然のことながら藤原氏のライバルです。したがってこの一連の出来事を藤原氏の4つ目の他氏排斥事件、阿衡の紛議と覚えてください。

寛平の治

基経には息子がいませんでした。したがって基経が亡くなると、宇多天皇はいよいよ自分で政治を行います。天皇が自分で政治を行うことを親政といいますが、この宇多天皇が行った親政のことを寛平の治(かんぴょうのち)と言いました。

これを補佐した人が菅原道真、学問の神様として太宰府天満宮に祀られている人です。天皇が自ら政治を行うので、この人の役割はあくまでも秘書。したがってポジションは蔵人頭からスタートします。

遣唐使廃止

このとき、藤原氏は相当な危機感を持っていました。藤原氏から有力者を出せず、菅原道真が大活躍をしているのだから当然です。滅ぼすしかないと考えるわけですね。

ただし、現時点では菅原道真の方が立場が上。下手を打ったら反乱を起こした方として致命傷を負います。そこで菅原道真を遣唐使に推薦するアイディアを思いつきます。

表向きは「勉強をしてさらに素晴らしい政治をしてください!」、でも本音はもちろん「遣唐使に行って事故死しろ」です。もちろんその意図は見え見えなので、道真も行くことを拒否します。

そのときに使った理由が「そもそももう唐から学ぶことなんて無くね?」というもの。この意見が採用され、894遣唐使廃止となります。「白紙に戻そう遣唐使」なんて覚え方がよく言われます。

こうして危機を乗り切った蔵人頭菅原道真は、蔵人所の秘書室としての働きをより深めます。天皇のSPも行い始めたのです。この蔵人所に勤務していたSPのことを滝口の武士と言いました。天皇の警護といったら滝口の武士です。

醍醐天皇

宇多天皇の次は息子の醍醐天皇です。この人も自分で政治をやっちゃう系。延喜の治と言いました。

昌泰の変

この天皇の交代によって藤原氏が復活します。というのも、宇多天皇のときに負けを味わった藤原氏は、早くから息子の醍醐に取り入ってました。そして醍醐が天皇になるやいなや、道真を排除することに成功します。

901昌泰の変、他氏排斥事件⑤です。覚えることは3点、まず勝ったのが左大臣の藤原時平で、その時道真は右大臣にまで上りつめており、飛ばされた先が太宰権帥(だざいごんのそち)、太宰府のNo.2だったことの3つ。

道真はそこで亡くなったので太宰府天満宮に祀られているのです。もちろん、学問の神様として祀っているのは、本当に有能だからもあるけど、それ以上に道真が怨霊になることを恐れ、「すごい人」として残るようにしたのです。

醍醐朝の出来事

この時期で覚えることは5つ。①今の昌泰の変、②902年の延喜の荘園整理令、③三善清行の意見封じ十二箇条、④高麗建国、⑤延喜格式の作成です。度々言うけど、こういうふうにセットで覚えておくのが便利です。

②と③は土地制度で話すので醍醐朝の出来事なんだということをそのとき押さえて下さい。高麗建国は「ふ〜ん」くらいでOK。ここらへんの時期は海外との交流がほぼありません。だから遣唐使も無くなったのです。

三大格式

最後の延喜格式は嵯峨天皇みたいに醍醐天皇も律令をまとめたんだよって話です。実はこれ前回出てきた清和天皇も貞観格式(じょうがん)というのを作っていました。この3つを合わせて三大格式と呼びます。これもセットで!

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