土地制度①〜荘園公領制とは?初期荘園とは?を分かりやすく解説!

ちょっと政治の流れから外れて、古代の土地制度の話をします。分かりにくくて苦手としている人も多い土地制度。でも、実はたいしたことはありません。「2×2」を意識して整理すれば、案外簡単です。

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荘園公領制は2×2の4ブロック

古代の土地制度のことを、日本史の用語で「荘園公領制」と言います。これは一般人が耕す土地が荘園公領の2つに分かれることから、こう呼ばれました。荘園と公領があること、これがまず1つ目の「2」です。

次に、荘園公領制の話は墾田永年私財法ができて荘園が生まれたことから始まりますが、時間が経ってその影響が出始めると、「この制度はちょっとマズいな」ということになってある時期に変化します。

このように、荘園公領制には前半と後半の区別があるんです。これが2つ目の「2」。つまり、荘園前半・公領前半・荘園後半・公領後半と2×2の4つをきちんと整理できれば全然難しくありません(もちろん覚えることはあるけど)。

じゃあその前半と後半を分けるターニングポイントが何なのかというと、それが前回名前だけ出した「延喜の荘園整理令」でした。だからこのタイミングで土地制度の話を持ってきたわけです。

墾田永年私財法

説明に入る前に743年の墾田永年私財法を確認します。もともと全ての土地は天皇のものでした。公地公民の原則といったよね。その土地を貸してやるから税金を払えよってな形で国を運営してました。

ただ、この税が重くて逃げる人がたくさん出てきてしまった。別にその土地は自分の持ち物ではないので、頑張ることのモチベーションも出ないわけ。でもすると税収が減って政府も困ってしまった。

だから、「分かった、私有を認めてやる。その代わり税金は払ってくれ」といったのが墾田永年私財法でした。こうして土地が2つに分かれます。すでにあった天皇の土地と、新しく耕して「私有地」とした土地。公領と荘園です。

荘園前半

今言ったように、荘園は墾田永年私財法の成立によって誕生しました。天皇の妃でありながら藤原氏の繁栄を願った光明子の力で、人も土地も全部天皇のものという原則が壊され、自分の土地を持てるようになったのです。

前半の荘園のことを初期荘園、あるいは墾田地系荘園と言います。法律ができた瞬間から、みんな自分の土地をgetするために猛烈に頑張りました。・・・とはいかなかったんです。

実はこれ、誰にとってもおいしい話ではありません。なぜなら新しい土地を開墾するには、川から水を引いてくるなどの土木作業も必要となり、そんなの普通の人じゃできないからです。

これができるのは金持ちの大貴族や寺社とかだけでした。だから普通の人たちはそういうお金持ちたちに雇われて働きます。ここで給料がもらえて生活が安定したとか考えちゃだめですよ。

雇う方が圧倒的に強い、今風に言えば超ブラック企業に就職したようなものでした。結局は逃亡する農民が後を絶たず、不安定な労働力によってこの初期荘園のモデルは短期間で崩壊してしまいます。

初期荘園の種類

この初期荘園の増やし方は2つ、農民を雇ってやるのも含めて自分で開墾したものと、金にものを言わせて他人が開墾した土地を買い取るものです。前者の土地を自墾地系荘園、後者を既墾地系荘園と言います。ちょっと細かいけどね。

それから、上でもチラッと言いましたが、初期荘園は税金は払う義務がありました。こういう土地のことを輸租田(ゆそでん)といいます。

初期荘園の例

最後に、初期荘園の例を覚えてください。これはもう1つだけ、越前国道守荘(えちぜんのくにちもりのしょう)です。今の福井県に東大寺が大きな土地を持っていました。でもこれがどんどん荒廃していったよという史料が残っているのです。

以上で荘園前半の話が終わり。

公領前半

一方の公領とは天皇の土地。というか、くりかえすけどそもそも全ての土地は天皇のものでした。実際に誰がチェックするのかというと、国司が担当します。そこで公領は別名国衙領(こくがりょう)とも言われました。

考えてみれば当たり前のことですが、公領というのはすでに荒廃しきっているので、特別話すことはありません。税が重くてみんな逃げちゃってるんです。実際に班田ももうずいぶん行われていなかったりもする。

公営田の誕生

じゃあこの公領前半では何を覚えればいいのかというと、太宰府が新しい土地の管理方法を思いつき、みんながそれをマネしたよという話です。

これまでの土地制度は、戸籍によってどこに誰がいるかが把握されていて、個人を名指しする形で土地が与えられ、租庸調や労役・兵役などが課されました。今で言えば年金みたいに、誰がいくら払ったっていうのが記録されていたのです。

それを「誰でもいいから太宰府の土地で農業やってよ。使用料だけもらうからね」という形にします。釣り堀みたいな感じかな。入場料を払ったら好きに釣って持って帰っていいよーみたいな。

誰がやってるかは不明なまま、耕すなら賃貸料だけ払ってそれで終わりになる。これまでの未納の分をよこせって言われたら死んでしまうけど、この入場料だけなら手持ちのお金でどうにか払える人はたくさんいました。

一度逃げて所在不明の人たちがこうして集まってきたんです。太宰府が自分で経営に乗り出したこの戦略は大成功。この土地のことを公営田(くえいでん)と言います。

そしてそれを中央の役所や天皇自身もマネをし始めました。役所の土地を官田、天皇の土地を勅旨田(ちょくしでん)と言います。それぞれが別個に経営を行っているので、公営田・官田・勅旨田をまとめて直営田と言いました。

この直営田というのは、それまでの人に税金をかける仕組みではなくて、「この土地からは○○円集める」という仕組みでした。であれば、土地制度を根本的にこちらに変えた方がいいよねって話になります。

そこで最後にもう1度だけ班田を行い、それと同時に今後はやり方を変えるよという通知を出します。それが前回名前が出た、902年の延喜の荘園整理令でした。醍醐朝の出来事でしたね。「最後の班田」とあったらこれを指しています。

一応、こういう仕組みの転換をするには、きちんとした現状分析が必要です。戸籍制度とかがいかに崩壊していたかというレポートが前回その次に出てきた三善清行の意見封事十二箇条だったのです。「どこも崩壊してます!」みたいな内容。

以上が743年から902年の間の土地制度の話でした。もちろん制度が浸透するには時間がかかるから、厳密にこの2つの年号の間というわけじゃないけど、とにかく前半といったらだいたいこの時期なんだと押さえておきましょう。

今回のメインは荘園公領制の大枠を分かってもらうことでした。実際に覚えることは次回の後半戦の方が多いので、引き続き頑張りましょう。

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