源平の争乱①〜治承・寿永の乱

源氏と平氏が争い、最終的には源氏が勝って鎌倉幕府を開くまでの話です。まずは前半として戦いが始まってから清盛が亡くなるまでをまとめます。

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主な出来事

〈1180〉
安徳天皇即位
以仁王の令旨
源頼政挙兵
福原遷都
石橋山の戦い
源満仲挙兵
富士川の戦い
侍所設置
南都焼き討ち

〈1181〉
平清盛、没

 

以仁王の令旨と源頼政挙兵

まず、この源平の戦いは別名「治承・寿永の乱」(ちしょう・じゅえい)と呼ばれます。これは1度の戦いを言うのではなくて、源氏と平氏が何回も戦っていく、その総称。承平・天慶の乱と同じ感じ、混同しないように注意ね。

話は清盛が外祖父になったときに戻ります。清盛がやった5つのことの最後として、娘の徳子(とくこ)を高倉天皇に嫁がせるということがありました。この2人の間に生まれたのが安徳天皇、1180年に即位します。

このことにイラッとしてた人がいました。以仁王(もちひとおう)です。この人は高倉天皇の兄、つまり自分が天皇になれずに弟が天皇になってしまった、とても残念な人。安徳天皇即位によって、自分が天皇になれる可能性はほぼ消滅しました。

そんな以仁王に源頼政という人が提案をします。「今は平氏に反感を持ってる人が全国にたくさんいる。あなたみたいなきちんとした皇族の人が声をあげれば、必ず多くの人が立ち上がりますよ!」という内容。

この人は平治の乱の際、たくさんいる源氏の中で唯一平氏側についていたため、こうして皇族と話すことができました。なるほど!と思った以仁王はすぐに平氏追討命令を出すわけです。これを以仁王の令旨(りょうじ)と言います。

この命令はすぐに全国の源氏に広がるとともに、一番手をとりたい頼政もすぐに以仁王と一緒に挙兵します。ま、清々しいほどすぐに平氏にやられるんですが、清盛に「あれ、俺ら狙われてね?」と思わせるには十分でした。

福原遷都

焦りを感じた清盛は、すぐに源氏追討命令を出し、京を自分たちの慣れている神戸に強引に移してしまいます。地名を取って福原京と言いました。

この2つの清盛の判断は結果的には完全に裏目に出ます。まずは強引に京を移したことで、多くの人の反感を買いました。移した理由は神戸の方が守りやすいからですが、平氏以外の人にとってはそんなこと関係ありません。

ただでさえ少しずつ苛立ちを覚えているときにそんな強引なことをされたらカチンとくるのも当然のことです。

もう1つ、このころまだ源頼朝は立ち上がっていませんでした。頼朝はもともと平治の乱で破れて伊豆に流された身、自分の部下もほとんどいない状態です。事実、お世話係が3人くらいいるだけの生活を長く続けていたのです。今じゃ考えられん。

ところが源氏追討命令が出たことで、逃げるか戦うかしか選択肢が無くなってしまいました。もちろん戦力を持ってないんだから、コソコソ逃げるしかありません。普通なら。

石橋山の戦い

ただ、ここで奇跡が起きます。北条氏を中心に、たくさんの武士が味方についたのです。「おいコラ平氏、武士政権の意味が全然ねーだろ」と思っていた武士たちが、「今でしょ」と言わんばかりに源氏のプリンス、頼朝側につきました。

こうしてついに頼朝が立ち上がります。石橋山の戦いです。ただし、まだできたばかりの急造チーム、残念ながらここでは大敗をしました。頼朝は奇跡的に死を免れ、舟でちょっと離れた千葉県までなんとか逃げます。

この敗戦は頼朝にもっと強くならなきゃいけないという想いを抱かせた一方、清盛には油断を作らせます。源氏には一瞬ビビったけど、戦ってみたらデコピン一発で勝てた、余裕だなと思ったのです。

そこで残りの掃除をまだ実戦経験のない息子の平維盛(これもり)にやらせます。ここで、戦力集めをする頼朝と、攻めて来たら倒せばいいやという受身な維盛の間に40日間の休戦を挟みました。

源満仲挙兵

その間に今度は信濃(長野県)で源満仲が挙兵をします。頼朝のいとこなんだけど、頼朝のことが大嫌いで、負けてたまるかといって立ち上がります。

この人はなかなか狂気じみていて、平氏は最後山口県で滅びるけど、そもそも京から追い払ったのはこの人でした。そこらへんの話は次回。

富士川の戦い

40日間の休戦のあと、再び頼朝が戦いを仕掛けました。富士川の戦いです。駿府(静岡)で行われたこの戦いはド素人の維盛が平氏のトップであったこともあって今回は頼朝が圧勝します。

源氏が初めて平氏に勝つとともに、これ以降一度も負けていません。ここからが源頼朝という人のスゴかったところ。普通なら今はイケイケムードになっていて、どんどん平氏を倒していこうとするはずだけど、そうはしませんでした。

侍所設置

鎌倉でしっかりと腰を落ち着かせ。そこで関東を範囲とした政治を行うのです。勝手に独立国っぽくなって、武士による武士のための政治を行います。1つ例としてこのタイミングで侍所の設置を覚えておきましょう。

「1192(イイクニつくろう)鎌倉幕府」と言っていた昔と違い、今はこれをもって「鎌倉幕府スタート」となっています。武士が主役で、農業をきちんとする豊かな国作りを行いました。源平が次に本格的に衝突するのは4年後となります。

南都焼き討ち

その間、平氏は何をしていたでしょうか。ちょっとずつちょっとずつ嫌われ者になってきているので、よくちょっかいを出されます。特にウザかったのが興福寺の坊さんたち。

院政のところで僧兵という話があったのを覚えているかな。けっこうガチな戦力を持っているので意外とめんどくさい。そこで清盛はこの興福寺を中心とした一帯の寺社に放火します。南都焼き討ちと言いました。

実際にやったのは平重衡という人。これちょっとヤリすぎで、なんと東大寺の大仏まで燃えてしまいました。もしどっかの国が富士山を爆破したりしたら、日本人はみんなキレるよね、平氏もそうなっていきます。

その上、翌年には清盛が病死してしまいます。しかもしかも、その直前に平氏と仲良しだった高倉上皇まで亡くなっているんです。滅亡までのスピードが急速に上がりましたということで、続きは次回で。

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