平氏政権②〜清盛の太政大臣就任と外戚関係構築の話

平氏政権の後半の話です。前回は平氏って実はスゲーんだよという話でした。でもすぐに滅んで次の鎌倉時代が来ることは知ってる人も多いでしょう。ここから鎌倉幕府の成立まではその傾いていく様についての話です。

前回、清盛がやった5つのことという言い方をして、その③まで話ました。なので今回は続きの④から始めます。

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太政大臣就任

武士であり、かつ日宋貿易によるビジネスにも大成功した平清盛。もう金も力もあります。あと足りないのは何でしょうか。肩書きなんですね。スゴそうな名前が欲しかった。だから1167年、清盛は上皇に迫って太政大臣に任命されます。

太政大臣というのは、天皇を首相とするならば官房長官みたいな役割。律令制度の中で決まってるポジションなので、通常は貴族がなるものでした。これに武士である清盛がなったのです。もちろん初のこと。

藤原仲麻呂が太師になったし、関連事項としては僧である道鏡が太政大臣禅師になったという話があったけど、ちゃんとした太政大臣に武士がなったというのはこれが初めてです。

外戚関係の構築

清盛はもはやこの世の全てを手に入れつつありました。もう藤原道長状態。「平氏にあらずば人であらず」なんて言い方まで出て来てしまいます。道長の望月の歌よりたち悪い。

余裕が生まれると、どうしたら一族が今後も栄えられるかなと考えるわけです。答えは簡単、藤原氏と同じく天皇と家族になっちゃえばいいわけ。こうして清盛は娘を天皇の妃にしました。徳子(とくこ)と言います。次回も名前を出すよ。

結果的に藤原氏の力は落ちたけど、あれだけ繁栄したんだし、途切れた反省は後で考えたって十分間に合う。この策、清盛は完璧だと思ったはずです。

ただ、実際はこれによって平氏滅亡までのカウントダウンが動き出してしまいました。

平氏政権とは何なのか

ここでもう一度平氏政権の意義を確認します。もともと律令制度では存在そのものが想定されていなかった武士。だから「武士を守る法律」というものもありませんでした。

だからせっかく頑張って自分の富を築いても、それを誰かに取られたらもう終わり。裁判に訴えるみたいなことが何一つできませんでした。この不安定な立場を何とかしてほしい。武士が国家に望んだのはこのことだけでした。

なので、平氏という武士による政治は、日本中にいた武士たちの希望でした。なのに、その清盛が武士の方を全然見ずに天皇の方ばかりを見ている。やることも貴族のマネばっかり。思えば太政大臣になったこともそうです。

平氏は武士による天下取りという偉業を達成した。でも、じゃあどう武士の立場を社会に作るかということについては何のアイディアも持ってなかった。というか、その本質が清盛には見えてなかったんです。

頭の回転がスゴく速くて仕事もデキるのに、なんか根本的にズレている。こういう人はいつの時代にもいるので、あっという間に成功者に成り上がった清盛がそうでも、おかしいことではないんじゃないかな。

とにかく、これじゃあ武士が天下を取ったからって何も変わらないじゃん!という気持ちにみんながなっていき、このガッカリ感が後に源頼朝への応援となっていくのです。期待しただけに失望感が大きかった。これが平氏政権でした。

鹿ヶ谷の陰謀

太政大臣就任+外戚関係の構築によって周りの武士たちに生まれたこの違和感は、清盛が太政大臣に就任した10年後にまず形になります。1177鹿ヶ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)です。

平氏打倒のクーデターのことで、俊寛(しゅんかん)・藤原成親西光らが起こしました。 ただ、密告者によって事前にバレてしまい、結果的には何事も無く終了。だから「陰謀」です。

この事件は、抵抗勢力をすぐに潰せちゃうくらい清盛の地位は安泰だというのが表向きの意義です。ただ、そういう反対勢力が確実にいるんだということを世間に知らしめることにもなりました。

同じ想いを持ってる奴がいるというのは、自分も動き出す際に大きな自信になるよね。やっぱり平氏じゃない奴に任せるべきだという空気に世間が変わりはじめます。

最後、ここまで清盛は後白河上皇と仲良くしてきました。ただ、平氏の力は仲良くなった時期とはもう桁が違うわけです。そんな中でちょっとずつ関係が悪化していきます。

その結果、1179年に清盛は後白河上皇を幽閉してしまいます。単純に「上皇を閉じ込めるのかよ、すげ!」って思うけど、とにかくこれで一時期院政がストップしました。

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