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源平の争乱②〜4者のかけひきと鎌倉幕府誕生の話

治承・寿永の乱の後半、清盛が亡くなった後から平氏が滅亡し、鎌倉幕府が誕生するまでの話をまとめます。

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主な出来事

〈1181〉養和の大飢饉
〈1183〉倶利伽羅峠の戦い
〈1183〉寿永二年十月宣旨
〈1184〉一の谷の戦い
〈1184〉公文所問注所設置
〈1184〉屋島の戦い
〈1185〉壇ノ浦の戦い
〈1185〉守護地頭設置→鎌倉幕府誕生

平氏・頼朝・満仲・後白河上皇のかけひき

前回、清盛は晩年の判断がことごとくミスっていたという話をしました。たしかに平氏は自ら身を滅ぼすようなことをしていましたが、源氏には天も味方をしています。

まず、平氏のいる西日本で大飢饉が起こります。元号を取って養和の大飢饉。天気のせいで作物が全く取れなくなりました。今と違ってタイ米を輸入とかできないので、本当に餓死者が続出しました。

こうして平氏が苦しんでいる間に、前回登場した源満仲が攻め込んできます。倶利伽羅峠の戦い(くりからとうげ)で平維盛軍を倒し、京にやってきました。この峠は石川県と富山県の境にある砺波山(となみやま)にあります。

ここから先は平氏・頼朝・満仲・そして後白河上皇のかけひきの話にもなってくるので、ちょっと状況を整理しましょう。

まず平氏は今言ったとおり、義仲に攻められて京都から西に逃げて体制を整え始めました。逃げたとはいえ、西日本は平氏が支配しており、そもそものホームは神戸でした。

満仲は信濃(長野県)から出発し、日本海側で力を蓄えたあとで京都に入りました。平氏に代わって占領し、後白河法王にいろんな要望を突きつけます。

頼朝は相変わらず関東で着々と勝手に政治を行っています。ちなみにこのときの頼朝の身分は流人です。もちろん他と同じく武士ではあるけど、平治の乱で負けて流されたままなので、身分は流人なのです。

では後白河上皇はどうかというと、実は金欠で苦しんでました。「マジかよ上皇(笑)」って話だけど、平氏と満仲の支配地域が大きく、そこからは税を取れてなかったのです。上皇の収入は知行国の数で決まるんだよ。

そこで、後白河上皇は満仲が残りの平氏を討ちにに西国へ出かけて行くやいなや、頼朝に使者を出しました。「頼朝くん、君に関東・東海地方の支配を認めよう」という話をします。

もちろんこれは「だから一定のお金をよこせよ」ということを含むのですが、同時に頼朝を流人から戻すということも意味していました。頼朝もそれを了承したため、上皇から公に宣言されました。これを寿永二年十月宣旨と言います。

これは西国に出かけていったばかりの満仲を怒らせました。「いろいろ要望を出したのに、俺には肩書きを認めず、なんでアイツには認めるんだよ!使えねーな、このジジイ!」と言って後白河上皇を幽閉してしまいます。

後白河上皇、2回目の幽閉です(笑)

平氏滅亡

これが頼朝の再スタートの契機となります。上皇に反逆したものを滅ぼすという立派な名目が立ったからです。ましてや今は上皇に身分を保証してもらったばかり、満を持して満仲と、その先にいる平氏を倒すための行動に出ます。

満仲については秒殺されるので、ここからはもう源平の戦いの話です。京都で満仲を倒し、後白河上皇を助けたあと、そのまま西へ進みます。ここで3戦全勝して平氏を滅ぼすのです。

順番を絶対に間違えないでください、一の谷の戦い(摂津)→屋島の戦い(讃岐)→壇ノ浦の戦い(長門)です。壇ノ浦の戦いだけ年が変わって1185年。ここで平氏は滅亡し、まだチビだった安徳天皇はおばあちゃんに抱かれて入水します。

この一連の戦い、頼朝は出て行っていません。自分は鎌倉でじっくりと腰を据え、戦いは弟の源範頼(のりより)に任せます。ただし、この人はそんなに優秀ではなかった。とっても苦戦したんです。

そこで仕方なく大将を別の弟である源義経に変えます。これが大成功。どうやって勝ったかは長くなるのでまた別の機会にしますが、とにかく呆気なく平氏は負けてしまいました。

鎌倉幕府誕生

快進撃を続けた義経ですが、たった1つだけミスを犯しました。それは先に言った安徳天皇の入水を許してしまったことです。

いや、別に入水自体は全然いいんだけど、その際に三種の神器の1つ、神剣も一緒に海に沈んでしまいました。

実は、頼朝は義経にこの三種の神器の回収を命じていました。平氏滅亡自体は頼朝個人の想いとしてありましたが、武士の社会を作るという立場では、実はこちらの方が重要だったのです。

何故かというと、日本はやっぱり天皇の国なんです。武士の社会と言ったって、それは天皇が認めなければ一種の違反行為。これを戦略的に認めさせることこそが頼朝にとって何よりも大事なことでした。

頼朝が考えたのは、平氏が持っているこの三種の神器を取り返し、返す見返りとして認めさせるというもの。三種の神器は天皇家にとって何よりも大切なもので、それが無いのに「自分が天皇だ」とは、ちょっと後ろめたくて名乗りづらいのです。

そんな武士政権誕生の鍵となるようなアイテムを義経は取れなかった。というか、頼朝が考えていることを全然理解できておらず、平氏を倒して満足したうえに、後白河上皇から平氏を倒したご褒美に冠位までもらってしまう始末。

天皇と対等な立場を手に入れたいのに、ご褒美なんてもらってしまったら「私が下です」と言っているようなもの。頼朝はブチ切れ、義経から金・戦力のほとんどを没収してしまいます。

何故怒られているのか分からない義経は、「兄貴マジ意味分かんねー。これ、倒さないと俺がやられるやつだ」と思い、後白河上皇に迫ってムリヤリ「頼朝追討」の院宣を出させました。

これが後白河最大のミスであり、鎌倉幕府誕生のきっかけとなります。「おい、別に俺らは天皇・上皇に対して何も危害を加えてないだろ。なんでそんな命令出したんだよ」といって頼朝がより強い口調で責め立てるのです。

後白河の時代にはまだ西面の武士もできていません。軍隊を持たない上皇は頼朝率いる大軍を前にちびりそうになり、ついに義経を捕まえることを名目に全国に守護地頭を置き、その任命権を頼朝に認めます。

守護・地頭の役割は鎌倉幕府の仕組みで話すとして、こうして頼朝は全国的に武士の存在を認めさせることに成功しました。これをもって鎌倉幕府誕生と言います。

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