鎌倉時代⑤〜9代執権北条貞時、霜月騒動と永仁の徳政令の話

鎌倉時代の政治、5回目は9代執権北条時貞の話です。出来事としては3つしかないけれど、次まで言ってしまうと長くなってしまうので、今回はこれだけです。

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9代執権北条貞時の主な出来事

1285霜月騒動
〈1293〉平禅門の乱
〈1293〉鎮西探題設置
1297永仁の徳政令

元寇を迎え撃った北条時宗は、そのストレスがすごかったのか、それから比較的すぐに亡くなってしまいます。そこで次の執権は息子で得宗の北条貞時(さだとき)、まだ若く、それが問題を引き起こすこととなりました。

霜月騒動

元寇からなんとか日本を守った北条氏ですが、実はその後が大変だったんです。あくまでも日本にやってくる元を退けただけなので、日本としては何も得るものが無かった。でも「戦ったんだから褒美くれよ!」とあちこちから言われたのです。

これは鎌倉幕府の仕組みで話した新恩給与が出せなかったこと意味します。つまり幕府と御家人との約束が守れなかったということで、「そっちが約束を守れねーなら、従う理由はない」と思う人が増えてしまったのです。

しかも、北条氏は数々の他氏排斥を行うことで、もともとは合議制で運営するという幕府のルールを崩したあと。権力を集中させていたことで、逆に批判も一手に受ける形となってしまいました。

不満を持つ人たちは、決まってある人物の元を訪ねました。御家人たちへあげるご褒美を決める立場にいた安達泰盛(あだちやすもり)という人です。これは何も「なんでよこさねんだコノヤロー」と脅すためではありません。

この安達泰盛という人は御家人からの評判がすごくよく、実際、幕府はもう1度合議制に戻るすべきと考えていました。また、それができるのは自分しかいないとも思っていました。時宗の義父であり、貞時の外祖父だったからです。

ただ、この泰盛の想いは、得宗政治で甘い汁を吸っていた人物によって消されてしまいます。平頼綱(よりつな)という貞時の右腕の人物で、身分を内管領(うちかんれい)と言いました。

このとき、鎌倉幕府にではなくて北条氏の得宗に直接仕える武士というのがいました。これは御内人(みうちびと)と言います。得宗のためだけに働く人たちです。そしてそのトップの人を内管領と言ったのです。

平頼綱は貞時の乳母の旦那さんでした。御家人としては強くないけど、直接契約している北条氏の得宗さえいれば、身分が保証されていたのです。そんな頼綱にとって、合議制に戻そうとする泰盛は「フザケルナ」という存在。

そこでまだ幼い貞時に、「おじーちゃんが自分の息子を将軍にしようと企んでいるんだ。つまり、君の前ではいい顔をしてるけど、本当はいつ消すのかをうかがってるだけなんだよ」というウソを吹き込みます。

源頼家と比企氏がそうであったように、この時代は血のつながった祖父よりも乳母の家の方が仲がよい時代でした。貞時はこのウソを信じ、滅ぼすことを許可してしまいます。

こうして最後の有力御家人であった安達泰盛が消えます。11月に起きたゴタゴタだったので、霜月騒動(しもつけそうどう)と言いました。結局は次の代で幕府は滅びてしまうんだけど、これをもって得宗専制政治が完璧となります。

平禅門の乱

ここまで読んだほとんどの人は平頼綱のことが嫌いだと感じているのではないでしょうか。幕府の安定を真面目に考えている人を、己の欲望のままに滅ぼしてしまったんだから。

安心してください、正義は必ず勝ちます。貞時が成長してくると、頼綱的にはだんだん扱いづらくなってきます。そこで、「もう貞時とか無視しようぜ。なんなら滅ぼしちゃう?」みたいな話をし始めます。調子乗ってるからね。

ただ、この頼綱の傲慢な態度に、ついに息子がキレたのです。貞時に対し、「アイツがそんなことを言っています。身内なだけに余計許せないんです!」と言うという、すごくイケメンな行動に出ます。

これを聞いた青年貞時はもちろん激怒、頼綱を滅ぼしました。これを平禅門の乱(へいぜんもんのらん)と言います。平頼綱の乱ではないのが注意だね。このとき頼綱は仏門に入っていました。だから本名では呼ばないのです。

ちなみにこの直後、前回話した鎮西探題の設置が行われます。幕府直営の九州を管理するところです。朝廷が太宰府を置いてるのと同じような話ね。

永仁の徳政令

時貞のときの出来事、最後は永仁の徳政令です。この話は鎌倉時代の社会経済について学ばないといまいちピンとこないところなので、今回は単純な説明だけにしておきます。

鎌倉時代、もしお父さんが亡くなってしまった場合、その財産は子どもたちに均等に分けられるのが常識でした。もし5人兄弟なら5等分されたのです。ただ、当たり前だけどこれだと子どもはパパより貧乏になってしまいます。1/5だけなんだから。

そこで子どもたちはそれぞれが活躍をし、幕府から新恩給与として新たな土地をもらうということをしていました。ただ、元寇のご褒美をあげられなくなったところから、この仕組自体が崩壊してしまったのです。

そのため、御家人はどんどんどんどん貧乏になってしまいました。金がないから土地を担保に金を借り、返せないから土地を奪われる。この悪い循環が続き、本当にホームレス状態になっていったのです。

でも、御家人がホームレスでは幕府も困る。そこで仕方なく借金を帳消しにする命令を出します。1297年、永仁の徳政令(えいにんのとくせいれい)です。永仁という元号の時期に出されたので、こう言います。

内容は主に3点です。①越訴(おっそ:裁判で負けた人がもう1回!と言うこと)の禁止、②御家人が自分の土地を売ったり質に入れることを禁止、③すでに売られてしまった土地を御家人に返す。

簡単に言えば、「御家人の土地を高利貸しに渡すことは禁止だし、すでに渡されたものも返すよ、そしてこれに対する文句もなしね」的な内容でした。ただ、20年が経過したものについては認められません。20年年記法があるからね。

このように、商人的にはブチ切れものだけど、御家人の救済が最優先というのが永仁の徳政令でした。「1297、イイニクイナ借金帳消しなんて」と覚えましょう。もちろん、この不満が倒幕へとつながっていくことになります。

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