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室町時代②〜60年続く南北朝の動乱、その始まりの部分

建武の新政の崩壊が見えたころ、同時に南北朝の動乱が始まります。これは結果的に60年にもおよび、途中からはもう何の戦いかもよく分からなくなっていくような泥沼合戦です。

ただ、もともとは天皇中心の政治を行っていた後醍醐天皇と、一緒に鎌倉幕府を倒したものの、それは武士のためであって、「後醍醐、テメーのためじゃねーんだ!」という足利尊氏の争いでした。今回はこの部分をまとめます。

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南北朝の動乱の主な出来事

〈1335〉中先代の乱
〈1336〉湊川の戦い
〈1336〉光明天皇擁立
〈1336〉建武式目制定
〈1336〉後醍醐天皇、吉野に移る
〈1338〉和泉石津の戦い
〈1338〉越前藤島の戦い

中先代の乱

鎌倉幕府最後の執権が北条高時という人でした。この人には北条時行という子がいて、倒幕の際にギリギリ鎌倉を脱出、信濃にいた鎌倉幕府側の武士たちにかくまわれていました。

戦力が整って、この時行が鎌倉奪還を目指して挙兵します。こういう負けた方の残りがもう1度奮起するのは、通常なら失敗する時が多いんだけど、なんと時行はこれに成功し、鎌倉を取り戻してしまいました。

ただ、これはラッキーな面もありました。前回触れたように、鎌倉には足利尊氏の弟の足利直義が派遣されています。この人は政治家としてはピカイチだったんだけれど、戦いの才能はゼロ。尊氏とは正反対のタイプだったのです。

いずれにしても、北条氏の鎌倉奪回を聞き、関東のあちらこちらに散らばってしまっていた旧幕府側の人たちが再び集まり始めていました。当然、後醍醐天皇は軍を出して潰さなきゃいけません。そして尊氏という適任者もいました。

尊氏だって行く気満々で、早く派遣命令を出してくれと言っていました。ただ、後醍醐天皇はこれを渋り続けます。せっかく天皇中心の政治を取り戻したのに、また武士が手柄を立てる機会を作るのがどうしても嫌だったのです。

後醍醐のこの姿勢に呆れた尊氏は勝手に鎌倉へ行きます。直義と違って戦いには強い(ただし、政治力は皆無)尊氏は、あっという間に鎮圧します。そして「やっぱり後醍醐じゃダメだ」と言って反旗を翻し、逆に京都に攻め入ったのでした。

この、北条時行が鎌倉を取り返し、そして足利尊氏によって潰された出来事を中先代の乱(なかせんだい)と言います。ここから、室町幕府を作る足利尊氏の戦いが始まります。

ま、京都まで戻ってきた尊氏は、いきなり戦いで負けてるんですけどね。当時最高の戦略家であった楠木正成の作戦と、新田義貞軍の力が合わさったものには尊氏も勝てなかったのです。

後醍醐のもとには超強い人が3人いました。今言った楠木正成と新田義貞、そして陸奥将軍府に派遣されている北畠顕家です。顕家は公家出身なのに戦闘力がスゴく高いという謎の人です。この先の話をする上で、この3人を絶対に押さえておこう。

湊川の戦い

京都で敗れた尊氏は、鎌倉とは逆の九州の方へ一時避難をしました。東国で味方になってくれそうな武士はもうほとんど集め終わっていたし、元寇を経験して全体的に強くなっていた九州の武士の協力を得たかったからです。

実際、九州・四国・中国地方の武士から圧倒的な支持を受け、京都での敗走からたったの4ヶ月で尊氏の軍は強大になります。そうして再び楠木正成と戦って今度は破りました。この尊氏vs楠木正成の戦いを湊川の戦い(みなとがわ)と言います。

楠木正成は尊氏が圧倒的な軍力を揃えるのを見越して後醍醐天皇にいろんな作戦を伝えます。勝っているうちに和睦して飼い犬にしろとか、一度山奥に退いて集団戦法ができない状態(=正成の得意な戦い方)をさせてくれとか。

ただ、プライドだけが高い後醍醐天皇、こんなやり方を許可しません。最後は負けることを分かりながら正面から出陣し、そして負け、自刃をする。最高の戦略家は、こうして家来の立場を最後まで守りました。でももったいない。

光明天皇擁立と建武式目制定

京都に入ってきた尊氏は、ここへ来る途中にあるアドバイスを受けていました。それは後醍醐天皇によって追い出された光厳上皇に院宣を出してもらい、新たな天皇を擁立するというものです。

たしかに、今のままでは天皇に歯向かう反乱軍となってしまうけれど、自分の味方をしてくれる天皇を作ってしまえば、天皇家内部の争いにすり替えることができる。こうして光厳上皇の子が光明天皇としてグレーな感じで即位します。

ただ、そのあとすぐに大勢で後醍醐天皇のもとへ行き、ヤクザの脅しよろしく三種の神器を手に入れました。なので、一応きちんと天皇だとは言えるのです。

そして「これから足利尊氏が自ら作っていく政治体制はこんな感じにするぜ!」といった基本政策をまとめます。建武式目です。名前が似ているので紛らわしいんだけど、御成敗式目は法律で、建武式目は憲法。全く別のものと考えよう。

南北朝が並立

あとは光明天皇に征夷大将軍に任命してもらえればいいだけでした。ところがここでまた後醍醐天皇がかき乱してくれます。一瞬のスキをついて京都から抜け出し、南にある吉野というところの山奥に逃げました。

そして「ふふふ、あの三種の神器は偽物なんだよ、騙されやがったなバカめ。今日からこの吉野を朝廷とするからな」と言い出します。どちらが本物なのかは分かりません。もちろん光明天皇がそれを認めるはずもありません。

ここに朝廷が2箇所にあるという状態が誕生します。これが南北朝の動乱のスタートです。後醍醐天皇は南に逃げたので南朝、結果的に北にいるので尊氏&光明天皇が北朝と言われました。

藤島の戦いと石津の戦い

最後、さっき述べた後醍醐天皇側の戦士2人が敗死してしまう話です。足利尊氏には高師直(こうのもろなお)という右腕がいました。将軍の執権みたいな立場で、執事といいます。次回詳しく話します。

この人が後醍醐天皇を助けるために東北からやってきた北畠顕家を倒します。和泉国石津の戦い(いしず)と言います。同じく弟の師泰が北陸地方へ戦力補強にでかけていた新田義貞を倒しました。越前国藤島の戦いです。

後醍醐天皇が頼っていた3人の戦士が全滅し、南朝は一気に力を失いました。これを聞いてすぐに光明天皇は尊氏を征夷大将軍に任命します。今回はここまで。次回は南北朝の動乱が意味不明な展開になっていく様子をまとめます。

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