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室町時代①〜建武の新政、後醍醐天皇による身勝手な改革

鎌倉幕府が滅び、倒した後醍醐天皇が政治を行います。まだ室町幕府ができたわけではないけれど、今回から室町時代のこととして話していきます。

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建武の新政とは

後醍醐天皇が自ら行った政治のことを建武の新政といいます。通常、天皇が自ら政治を行うことを「親政」といいます。平安時代に延喜の治や天暦の治というのがありました。後醍醐自身それを理想として自ら「俺は後醍醐や」と名乗ったんです。

ただ、ここでは新しい政治という意味で「新政」の漢字を使います。気をつけて。実際、この延喜・天暦の治とは内容が全く違います。本当に理想としてたの?ただ親政がやりたかっただけでしょ?レベルで違うんです。じゃあ、何が新しいのか?

前回、後醍醐天皇は宋で生まれた朱子学にハマっていたと言いました。昔の中国は皇帝が全ての権力を握っていました。後醍醐天皇も、天皇である自分に全ての権力が集まっている状態を作ろうとしたのです。簡単に言えば独裁政治です。

具体的には、まず関白を廃止します。自分で政治を行うんだから、天皇の代わりに政治を行う職なんて必要ありません。もちろん、天皇である自分より発言力があるやつもいりません。よって院政も廃止です。

それから、全ての権利を奪いとります。たとえば土地の所有権。鎌倉幕府が認めたとか、知行国主に認められているとか、そんなことは一切関係ありません。後醍醐天皇が直接認めたもののみ、所有を許されました。

院政や関白の廃止は分かるにしても、土地の所有に関しては無いなと思うでしょ?もちろん天皇へ権力を一極集中させるという点で筋は通ってはいるけれど、現実的ではない。奈良から鎌倉までの600年の歴史を何だと思ってるんだ。

自分に近い貴族には簡単にOKを出し、武士に対しては全然それを出さない。そんな状態が続いたことで社会の不安や混乱を招き、建武の新政は結局わずか3年足らずで崩壊します。

大まかな話はここまで。具体的に覚えなきゃいけない話に入ります。

綸旨の使用

後醍醐天皇がどうやって短期間に役職を消したり、土地の所有権を取り消すことができたのか。その秘密は、綸旨(りんじ)が絶対的な効力を持つものだと最初に決めたことでした。

綸旨とは、天皇が蔵人に直接しゃべり、それを蔵人が書き起こして最後に「、と天皇が言ってました」と付けるだけの超簡単な命令のことです。大臣クラスで検討されてから出される詔勅よりも、邪魔されず圧倒的な速さで出せました。

後醍醐天皇は1番最初にこの綸旨が1番強いものだというふうに決めてしまったのです。つまり「僕がしゃべったことが法律ね」状態。もうね、ヤバい香りプンプンだよね。

建武の新政の統治機構

続いては建武の新政の支配システムの話です。どんな役職があったのかを、律令制度や鎌倉幕府の統治システムのときと同じく、中央→地方の順番でまとめます。

中央:記録所・雑訴決断所・恩賞方・武者所

後醍醐天皇のスゴいともバカとも取れるところが、何でもかんでも自分でやったということです。裁判で話を聞いて判決の綸旨を出す、頑張った話を聞いて褒美の綸旨を出す、お前はこれをやれという人事異動の綸旨を出すなど。

ただ、さすがに補佐をしてくれる人がいないとパンクしてしまいます。政治や裁判を補佐するのが記録所、ご褒美を与える補佐をするのが恩賞方(おんしょうかた)、武士の統率や軍事・警察仕事を行うのが武者所(むしゃどころ)です。

武者所の仕事は今まで何回も言ってきたように「ケガレ」と隣合わせなもの。後醍醐天皇はやりたくありません。なので、ここには頭人という明確なトップを起きました。それに起用されたのが、最終的に鎌倉を潰した新田義貞です。

また、土地の所有権が白紙に戻ったために、多くの人が「認めろ!」と言ってやってきます。後醍醐が納得さえすればいい時代。まじめな相談もたくさんあるけれど、中には自分のものじゃないのに、さも奪われたかのように言う人もいました。

これによって裁判の数が信じられないくらい増えてしまいます。さすがに手に負えなくなった後醍醐は、あとから雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)を作り、裁判業務を記録所から切り離しました。なので、中央の仕事は4つとなります。

地方:鎌倉将軍府・陸奥将軍府・守護・国司

地方については基本的に鎌倉と東北という東国を監視するためのポジションを作りました。鎌倉将軍府陸奥将軍府です。それから、天皇は律令制度を基にするので国司の権限を強めました。ただ、幕府の名残が強く、守護は無くせませんでした。

この地方を管理するというのは、要は反乱を起こさないようにチェックしているということなので、基本的には戦える人材でなければ務まりません。

ただ、後醍醐は武士を嫌っていたため、トップに武士を起用するのがどうしてもやりたくなかった。そこで自分の息子をトップにし、その補佐として武士をつけることをします。

鎌倉将軍府には【成良親王(なりよし)+足利直義(=高氏の弟)】を、陸奥将軍府には【義良親王(のりよし)+北畠顕家(きたばたけあきいえ)】のセットを起用しました。

あと2人息子がいるんだけれど、こちらにも役職があります。懐良親王(かねよし)が征西将軍護良親王(もりよし)が征夷大将軍です。結局3年しかなかったわけだし、この人たちが何かをしたことはありません。

二条河原落書

最後に、この建武の新政によっていかに社会が混乱に陥ったかを描写してくれているものとして二条河原落書(にじょうがわらのらくしょ)を覚えておきましょう。「このごろ都に流行るもの〜」で始まるもので、史料問題としても出ます。

落書とは政治批判を目的とした文や画などで、匿名で配られるもののことをいいます。いわゆる「らくがき」というのはこれがのちのち変化したもので、もともとの意味はこういった社会風刺をするものでした。

以上が建武の新政でした。後醍醐天皇は基本的にバカヤローだと思います。ただ、自分の信念に従ってわずか1代で鎌倉幕府を倒し、こんな政治を短期間ながらやり遂げた。好き嫌いとは別にこのことはスゴいと思うし、評価するべきとも思います。

やっぱり理想論しか言わない人とか、他人の批判ばっかりしてる人よりも、「やった奴」がエラいと僕は思う。でも、好き嫌いで言ったら後醍醐は嫌いです(笑)

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