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室町時代③〜足利尊氏による幕府開設と観応の擾乱・半済令の話

楠木正成・北畠顕家・新田義貞、南朝側の3戦士が亡くなり、いよいよ室町幕府が誕生します。ただ、南北朝の動乱は終わっていません。さらに北朝内部の争いがある、とっても複雑な時期でもありました。

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初代将軍足利尊氏のころの主な出来事

1338〉足利尊氏、征夷大将軍となる→室町幕府の成立
〈1339〉後醍醐天皇、没→後村上天皇即位
〈1348〉河内四條畷の戦い
〈1350〉観応の擾乱、スタート
〈1351〉正平の一統
1352半済令
〈1354〉北畠親房、没

室町幕府の成立

北畠顕家と新田義貞が消え、この時点では南朝はもうただ消えるのを待つのみといった状況になりました。これを見て安心した光明天皇は、尊氏を征夷大将軍に任命します。

すでに建武式目を出しているように、尊氏による武家政権の整備自体は前からやっていました。ただ、一応1338年のこれをもって正式に室町幕府の成立となります。幕府の仕組み等はまた次回まとめるよ。

後醍醐天皇の死と四條畷の戦い

南朝がもうヤバい、この意識は後醍醐天皇も間違いなく持っていました。そしてプライドの高い彼にとって、こんな状況がくることはまさに想定外。ショックすぎて翌年には病死してしまいます。

ボスがいなくなると、普通は南朝が北朝にごめんなさいと言って1つにまとまっていくものです。ただ、ここが煮ても焼いても食えない後醍醐天皇、遺言に「必ずや権力を奪い返せ」と残します。

この遺言があるためだけに、残された者は和解を目指すことができず、南北朝の対立はズルズルと長引いてしまうのです。そのような中、南朝の最後の希望だったのが楠木正成の息子、楠木正行(まさゆき)でした。

湊川の戦いで正成が敗れた際、正行はまだ坊やでした。それが徐々に成長し、父親譲りの少ない人数で大勢を相手に勝っていく力でゲリラ戦をくり返していました。ついには室町幕府の幹部クラスまで倒してしまいます。楠木家マジすごい。

そこで、尊氏は本格的に南朝を攻めます。戦った地名から四條畷の戦い(しじょうなわてのたたかい)と言いました。これはさすがに尊氏が圧勝、南朝最後の希望である正行は敗死します。いよいよもって南北朝の対立は終わりそうだったんです。

観応の擾乱

ところがどっこい、なんとここで尊氏と弟の直義が対立をするのです。戦いに強く政治はまるでダメな兄と、真逆の才覚を持つ弟。両方いて初めて最強を名乗れるとても仲のよかったこの2人が、対立をしてしまうのでした。

高師直とは

この話は高師直と足利直義の出身、あるいは考え方を説明しなきゃ理解できません。これまで所々で言ってきたけど、この当時、ひと口に「武士」といっても実際は大きく分けて2つのパターンありました。

1つは鎌倉時代の御家人のパターンで、もともと農民が自分の土地を守るために武器を持ったもの。幕府によって認められたあとは必要なときだけ戦い、それ以外では農業をしています。毎回パターンと書くと長いので、「農民P」と書きます。

もう一方は商人が武士になっていくパターンです。天皇・貴族中心の西日本では商業が発達し、その物資やお金を守るために、商人が自ら武器を持って戦いました。あるいは雇われて戦った悪党、こういうタイプを「商人P」と呼びましょう。

農村にいる人と、市場で働いている人をちょっとイメージしてみましょう。同じように自分で生きる力を持っていたとしても、この両者が求めるものは全然違います。

そしてなんとなくの傾向として、農民Pの方がゆっくり落ち着いてものを考える人が多く、逆に商人Pの方がその場その場で判断して強引にやり切る人が多くいました。

この商人Pからは、徐々に「勝つことが全て、世間のルールなんて知らねーよ」という者が現れます。世の中金が全てと思ってるような人って言えばいいのかな。そういう人たちのことを婆沙羅(ばさら)と言いました。

こういう人たちはたしかに強いんです。すぐに世間が無視できないような存在になっていきました。この婆娑羅の中でも圧倒的に強かったのが高師直だったのです。北朝が勝つことを見越し、足利尊氏の最強の右腕として働いていました。

建武式目は農民パターン

室町幕府の政治方針が書かれた建武式目。これを書いたのは足利直義でした。どう国を治めるか、とにかく政治の話は尊氏ではなくて直義の担当です。彼は鎌倉時代的なやり方が武家政権としては正しいという考え方を持っていました。

その根拠は天皇と将軍の関係性です。武士はケガレた存在であり、天皇に歯向かうのは犯罪である。この考えはどうしても武士の頭から消えません。だからトップに天皇がいて、政権担当者として武士がいる鎌倉時代方式が理想なのです。

ただし、商人Pにとってはもはやそんなことどうでもいいのです。結局天皇は何もできないただの人。そんな人を敬う必要はない。とにかく武士にとって理想的な政治をやれというのが商人Pの主張です。

ましてや鎌倉幕府は徳政令によって商人を苦しめた存在。商人Pにとっては理想なはずがないのです。こうして足利直義vs高師直の争いが明確になります。なので、この時点ではまだ尊氏vs直義ではなく、高師直vs足利直義の対立でした。

正平の一統

世の中の流れとしては、たしかに直義の考えは時代遅れだったのかもしれません。商人Pは絶対に無視できない存在です。ただ、尊氏自身は弟と戦いたくないあまり、だんだん両者の対立が激しくなっているにもかかわらず、何もしませんでした。

この優柔不断状態が続くうちに、意外なほどまで直義側の勢いが増してしまいます。誰かと誰かがケンカした場合、片方は尊氏側に、もう片方は直義側につくみたいなことが起こったからです。

ついには「高師直は強い」みたいな個人レベルでどうにかなる問題ではなくなり、実際、高師直は戦いで負傷。結局はその後さらに攻められて死にます。完全に幕府を二分する勢力となった直義は、武家の本領である鎌倉に身を移しました。

鎌倉で一大政権を作られてしまっては、室町幕府の存在価値自体が損なわれてしまう。ここでようやく尊氏は直義を討つことを決意しました。鎌倉に向けて出陣をします。遅いよ!って話だけどね。

ただ、ここで1つ問題がありました。南朝の存在です。いくら弱体化しているとはいえ、滅びてないんだからまだ力は持っています。鎌倉に向かっているうちに、南朝によって後ろから攻められるのが1番ヤバい。

そこで尊氏は、一度南朝に降伏することで、鎌倉遠征中に攻めてこないように約束してもらうという選択をします。ここで一時的に南北朝が統一されました。南朝の元号を取って正平の一統(しょうへいのいっとう)と言います。

この約束を取り付け、一気に鎌倉を攻めます。最後は直義を毒殺し、尊氏vs直義の争いは終わりました。この一連の対立を北朝の元号を取って観応の擾乱(かんのうのじょうらん)と言います。

半済令

尊氏の行ったこととして、最後半済令の説明をして終わります。観応の擾乱は終わりました。ただ、ちょいちょい抵抗を続ける人たちがいたりして、戦いが完全に無くなったわけではありませんでした。

また、南朝が尊氏がいない間に約束を破り、天皇中心の政治を取り戻しつつありました。「3種の神器を持ってるのは自分たち。尊氏が言ったことは全部認めないよ」みたいなことを言っていたのです。

南朝のこの復活劇のシナリオを書いたのが北畠親房(ちかふさ)という人。北畠顕家の親父であり、後醍醐天皇の側近の1人でした。2年後には年に勝てず亡くなるけど、文化史でやる『神皇正統記』という本を書いて強い影響力を持つ人でした。

もちろん、「は?ふざけるなし」と思った尊氏は、再度北朝を宣言します。だから正平の一統は翌年には破棄されていることを覚えておきましょう。こうして南北朝の戦いはまだまだ続いていくのです。

戦うために、必要になってくるのがお金です。戦いが長期化してくると、農民Pであれ商人Pであれ、自分で用意するというのが難しくなります。そこで、守護として自分が見回っている地域から(悪く言えば)奪ってこようという話になります。

ただ、昔の国司と違って、力を持ってる武士がやると全部取ってきちゃうんですね。全部取っちゃうと、そこの農民たちがガチな貧困に陥り、次回の年貢を納められなくなる。持続可能な社会であるためには、ある程度セーブしなきゃいけない。

そこで出されたのが1352年の半済令です。年貢を半分まで守護が取っていいという法律です。これは半分もくれる!ではありません。半分は残しておけよという法律です。

以上が室町幕府初代将軍、足利尊氏の時代の出来事でした。

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