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室町時代④〜3代将軍足利義満、全てを手に入れようとした男の話

室町幕府3代将軍、足利義満の時代についてまとめます。この人は全てを手に入れようとした人で、いろんなことをやっているので、今回から3回にわたって話していきます。

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足利義満の頃の主な出来事

〈1368〉細川頼之、管領就任
〈1368〉建国 by朱元璋
〈1378〉幕府を京都室町に移す
〈1390〉美濃の乱
〈1391〉明徳の乱
1392南北朝合一
1392李氏朝鮮建国 by李成桂

義満の将軍就任

室町幕府2代将軍は足利義詮(よしあきら)です。尊氏の長男で、尊氏とともにずっと南北朝の争いに参加をしていました。将軍になると、幕府の統治システムを整え始めるのだけど、残念ながら若くして亡くなってしまいました。

そこで義詮の息子、足利義満が将軍となります。1368年のこと。ただ義詮が若くして亡くなってしまったために、このとき義満はまだ子どもでした。わずか11歳、今で言えば小5ですね。さすがに政治はできません。

このため、義満にとって身近な長老的な人が代わりに政治を行います。細川頼之、この人が管領という職につきます。これは源氏が将軍だったときの執権みたいなポジションだけど、詳しくは次回にまわします。

1368年という年は、もう1つ大事な年でもありました。中国に新たな国、できたのです。朱元璋(しゅげんしょう)という人が作り、洪武帝(こうぶてい)と名乗ります。金印を与えた光武帝とは字が違うから絶対に間違えないでね。

この時期、忘れてならないのは南北朝の動乱がまだ続いていることです。戦力としては崩壊しているも同然だけど、3種の神器を持っていること、そして俺らこそ正しいというプライドが存続を支えていました。

明の存在に目をつけたのが、後醍醐天皇の息子で征西将軍として九州にいた懐良親王(かねよし)です。この大国の力を利用して北朝を滅ぼそうと考え、また明も日本人の海賊、倭寇に苦しんでいたので、その禁圧要求を条件に仲良くなりました。

これに対して幕府はキレます。「お前何してんねん。国内問題で外国のパワーを使うのは1番やっちゃいけないやつだろ。それって相手に軍を派遣する口実を作るってことだぜ。この件が片付いたら確実に侵略しに来るだろうが!」ってことだから。

そこで整備中だった幕府のシステムに九州探題を作り、今川了俊(りょうしゅん)を任命します。この人はなかなか強い人で、滅ぼすことまではできなかったけど、懐良親王を太宰府から追い出して最悪のケースを脱します。

以上が将軍義満がまだ少年のころの出来事です。正直、細川頼之はあまりいい政治をできませんでした。今川了俊の件も大成功とは言えません。少なくともみんなが納得するような状況には程遠かった。青年義満はこの前提からスタートします。

義満の覚醒

1378年、義満のもとに部下から「細川頼之を辞めさせてくれ」というお願いが届きます。義満にとって頼之は「爺や」的な存在なので最初は渋るものの、その意見があまりに多いのに驚き、結局は要求通り頼之を辞めさせます。

新しい管領が斯波義将(しばよしまさ)です。ただ、結局これは形だけの状態になりました。というのも、義満が「もう俺が政治できる。俺が全ての力を手に入れる」と言い始めたからです。

いつの時代も3代目は調子乗ってる系が多く誕生するものです。頑張って手に入れた1代目、それを見ながら権力の安定に奔走した2代目と違い、だいたい3代目は最初から「王様」の状態で生まれるので勘違いが多い。

義満もご多分に漏れずでした。

そして足利義満が特にぶっ飛んでるのは、最終的に「天皇になる」という目標を持ったことです。天皇とは血筋であり、日本人にとっては絶対的なもの。藤原氏を始め、寄生する人はたくさんいたけれど、乗っ取ろうとしたのは初めてでした。

これいろんな人が言っていて、僕が歴史を理解する上で強く影響を受けている井沢元彦氏も書いています。っていうか、今回の話はほぼその要約。とにかく義満は全てを手に入れようとした、これを頭に入れて義満・義持の政治を読んでください。

幕府を室町へ

鎌倉時代でもいったように、「幕府」とは江戸時代の人が名付けたもので、「ここが鎌倉幕府があった場所だよ」みたいな明確なものはありません。それは室町時代も同じです。

ただ、戦乱で忙しかった尊氏・義詮と違い、勘違い君の義満は「いやいや、王様なんだから豪邸に住むべきでしょ」と思って京都は室町の地に大豪邸を立てます。ここに住んで政治を行ったので、後に室町幕府という名前になったのです。

この義満の豪邸は通称「花の御所」と呼ばれました。この理由は、京都中のスゴい木を持ち主が誰であろうが関係なく全部持って来て植えてしまったからです。桜も梅も銀杏も松も、全部スゴイのが植えてあったようなイメージ。

それから、先ほどいった「天皇に俺はなる!」ってのがいつからあったのかはよく分かりません。ただ、「御所」という表現は明らかに天皇の家という意味なので、わりかし早い段階から思っていたんだと思います。

美濃の乱と明徳の乱

義満が次に行ったのは、邪魔な武士を滅ぼすことでした。こちらも鎌倉時代に引き続き、幕府があるからといって全武士がそれに従っているわけではなかったからです。反抗する奴もいれば、内部の権力争いもあります。

そこで義満は、自分の地位を脅かす可能性のある人たちを滅ぼしていきました。まずは1390年の美濃の乱。京都の近場である美濃や伊勢(=岐阜・三重県)を支配していた土岐康行を滅ぼします。

また翌1391年には中国地方11国を支配していた山名氏清(うじきよ)を滅ぼします。明徳の乱(めいとく)と言いました。このころ、国は全部で60ちょっとありました。そのため、氏清には「六分一殿」というアダ名があります。

このほかにも、大内義弘という人を義満は滅ぼしています。ただ、これは義満が将軍の位を息子に譲り、上皇的な立場にいたときの話なので、次回。とりあえず義満の時期ということではこの2つの乱を覚えてください。

南北朝の合一

義満の最大の功績、それは南北朝の争いに終止符を打ったことでした。1392年、南北朝の合一です。統一ではなく合一というのは、「統一」は武士が普通に使う言葉で、それとはちょっとレベルが違うぞっていうプライドの問題。

尊氏のころから続くこの争いを、義満がどのようにして終わらせたのか。一言で言えば南朝側が勝ったような形で2つを一緒にし、あとからその持ち前の強引さで約束を破るという方法でした。

まず、義満は3つの講話案を作ります。まあ、2つは本当に飾りのようなもので、大事なのは1つ、「南朝が3種の神器を持って北朝側に譲位をする。その代わりその次の天皇は南朝側から出す」というものでした。

つまり、「天皇家として正しいのは南朝側だと認めるよ、認める代わりに現在の天皇は北朝側にしてくれね?その次はまたそっちから選ぶようにするからさ」って言っている。

これに対して、まずは北朝側が文句を言います。それを認めたら自分たちが偽物だと認めることになるからです。でも義満は「うっせ、だまれ!」と言っておとなしくさせます。この時点でもう天皇を超えてる笑

南朝は「その条件ならいいぜ」と言って南北朝はついに1つになりました。南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に譲位する形で終わります。もともと南朝は亀山天皇から始まりました。つまり南朝はカメで始まり、カメで終わったのです。

で、それを見届けた瞬間、義満はこの約束を無かったものとしてしまいます。さすがひとでなし。そしてさらに、天皇家を乗っ取る作戦がここからスタートするのです。これについては次の4代足利義満のところで話します。

李氏朝鮮建国

最後に世界史の話を1つだけ触れておきます。南北朝の合一が起こってすぐのころ、朝鮮半島に李氏朝鮮という国が誕生します。李成桂(りせいけい)という人が高麗を滅ぼして建国しました。明と朝鮮の両方ができた時代が義満のころでした。

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