鎌倉時代の政治、4回目は8代執権の北条時宗の時代についてです。出来事としては元寇しかないけれど、得宗専制政治という鎌倉時代の重要な政治体制が明確になる時期なので、その説明もしていきます。
北条時宗・貞時の頃の主な出来事
〈1274〉文永の役
〈1275〉異国警固番役の強化
〈1281〉弘安の役
(貞時)鎮西探題設置
得宗専制政治
前回は5代時頼の話をしたのに、なぜ今回8代なのか、6と7はどこへいったの?という話をしなくてはいけません。キーワードは「得宗」、「とくそう」と読みます。歴史の流れを話す前に、まずはここから。
鎌倉時代は3つの政治形態がありました。まずは頼朝を始めとする源氏による「将軍政治」。次に北条氏による「執権政治」となりました。この両方に共通するのは、あくまでも中心が将軍や執権なだけで、まわりの御家人との合議制であること。
ところが、宝治合戦を経て北条氏が単独で権力を握るようになりました。もちろん反対勢力はいたけれど、摂家将軍のように強制的に消すことが北条氏だけで全然できる状態だったのです。
この北条氏によるある種の独裁政治のことを、「得宗専制政治」と言いました。藤原氏の氏の長者と全く同じ話で、長者のことを得宗といったのです。そして得宗=執権というわけではない、ここがなかなかミソでした。
鎌倉時代、得宗は4人います。5代執権の時頼、8代の時宗、9代の貞時(さだとき)、14代の高時(たかとき)です。時宗は時頼の息子で、時頼が亡くなったときはまだ幼かった。そこで一族の長老みたいな人が執権になったのでした。
ただし、権力を持っているのはあくまでも得宗。はっきり言って、得宗であれば執権かどうかはどうでもいいんです。表に出たいかどうかくらいの話。だから、時頼の次にそのまま8代時宗の話をしてなんの問題もないのです。
8代執権北条時宗
では、8代執権北条時宗の時代の話をしていきます。この時代に起こったことはもうただ1つ、元寇です。
元寇
日本を揺るがす大事件だった元寇。新しく中国を支配した元(げん)という国が、日本も支配下に入れと脅してきており、それを時宗があっさり却下したため、本当にやってきたのでした。
元とは
元とは、もともとはモンゴルらへんで遊牧生活を送っている人たちでした。ファミリー単位で暮らしているので、部族意識みたいなものもなく、となりのチームはライバルだと思いながらの暮らしを送っていました。
ただ、そこに拡大を続ける唐がやってきます。皮肉なもので、これがモンゴル人たちを目覚めさせてしまうのです。敵の敵は味方。なんか生活スタイルも遊牧で同じだし、協力しあうか、と。それを完成させたのがチンギス・ハンという人です。
そしていざ集団で戦ってみたら、全員が馬に乗って戦う騎兵というスタイルだったため、ビックリするくらい強かったのです。その勢いはチンギスの代だけでは収まらず、孫の代には中国、ロシア、そして東ヨーロッパまで征服します。強い。。。
そうして、これまた孫の1人であるフビライという人がトップに立ったとき、ついに日本も支配しようということになります。ただ、この「支配下に入れ」要求に対して執権北条時宗はあっさり拒否します。そして使者を処刑までしました。
これは時宗が相手の怖さを理解していなかったというのと同時に、このときはまだ「元」とは名乗っておらず、「蒙古(もうこ)」という中国の呼び方を使っており、手紙の送り主に「蒙古皇帝」と書かれていたことが大きかったんです。
「蒙古」というのは、日本が東北の人を蝦夷と名付けたように、もともと中国が他の人たちを軽蔑して呼ぶ呼び方の1つでした。実際「蒙」という字は、言ってしまえば「バカ」という意味なんです。
なので、時宗は「バカの国の皇帝」から手紙をもらった状態だったんです。全然かわいくない女の子に、「みんなのアイドル!」とか言われたら、ちょっと戦闘モードに入るじゃないですか。でも相手にしたら負けでしょ?
こういった経験を経て、フビライは「元」という国家にし、日本に攻めてきたのです。元を建国した人はフビライ、チンギスじゃないので注意しましょう。
文永の役
1274年、元が攻めてきます。元寇の1回目、文永の役(ぶんえいのえき)です。世界を席巻した元軍ですが、日本に来たのはその最強の部隊ではありませんでした。というのも、高麗軍との混成であり、かつ騎兵部隊ではいられなかったからです。
騎兵というのは、全員が馬に乗っていることを指します。この時きた軍人は2万6千といわれているけど、いつもの戦いをするためには2万6千頭、交代も必要なので全部で10万頭の馬を連れてくる必要があったのです。それが海をを渡るのはムリ。
この不利さを元は最新の武器と戦法で補います。てつはうと集団戦法です。てつはうは手榴弾のようなもの。鉄砲とは全然違うから注意。集団戦法は数人で1人を相手するもの。1対1で戦うのが染み付いていた日本の武士はかなり苦労しました。
やはり、圧倒的な強さではあった元軍ですが、自慢の騎兵部隊じゃなかっただけに、いつものような圧倒的なスピードで相手を撃破していくということができませんでした。簡単に言えば1日で終わらせることができなかった。
そして不慣れなやり方で強襲を受けるのを防ぐために、夜は全員船に戻って休むという選択をします。これが結果的に完全に裏目に出てしまいました。「神風」と呼ばれることになる暴風雨がきて、壊滅してしまったのです。
異国警固番役の強化
文永の役は失敗した。ただ、だからと言って日本の侵略はもう辞めようという話にはなりません。天候の不運があっただけで、戦闘では負けていない。もう1度行けば落とせるだろうとも思っていました。
それに、フビライには日本を手に入れたい理由が他にもありました。マルコ・ポーロの『東方見聞録』という本を知っているでしょうか。この中で日本は「黄金の国、ジパング」、つまり金に溢れた国として紹介されているんです。
この本自体は元寇のちょっと後に出たものだけど、あとあとこの本が1番有名になったというだけで、日本に対してのこういったイメージはすでにありました。フビライはこれを欲しがり、そのために再戦は至極当然だったのです。
こうしてフビライはもう1度戦うための準備に入ります。日本もこの情報を聞きつけ、防衛を強化していきました。異国警固番役(いこくけいごばんやく)の強化と石塁(せきるい)の設置です。
異国警固番役はどっかが攻めてきそうとなったときに、その土地にいる御家人がなるような職でした。夏になると海岸にライフセーバーがいてくれるくらいの感覚です。これを北条氏が直接指揮を執るものに強化させたのです。
もう1つの石塁は石を海側には断崖になるように、そして陸側にはなだらかな斜面になるように積み上げたものです。敵は越えるのに苦労し、その間に上からボコボコ叩くことができました。
この2つはもちろん防衛機能の強化が目的ですが、同時に北条氏が九州でも直接出向いて指図する、影響力をより強めるという働きもありました。
弘安の役
1281年、ついに再び元が攻めてきます。弘安の役(こうあんのえき)です。今回は東路軍(とうろぐん)と呼ばれる元と高麗の混成軍4万人に10万人の江南軍(こうなんぐん)の加え、合計14万もの兵が襲ってきました。
江南軍というのは、元の前の中国王朝である宋のことです。宋は元に襲われた際、南の方の狭い地域に移ることを条件に、なんとか滅亡を免れていました。それ以降の宋を南宋といい、この移った地域を江南の地と言ったのです。
この大軍によって対馬(つしま)とその南の壱岐(いき)などは壊滅的な被害を受けました。しかし、実際に本土にたどり着こうとするとき、再び暴風雨の奇跡が起きるのです。またまた元軍は壊滅、日本はなんとか助かりました。
このあと、執権が次の貞時に交代してから鎮西探題というのを作ります。先ほども言ったように、九州での影響力をより強めたよという話ですが、それはやはり次回にまわします。以上、鎌倉時代のいち大事件、元寇でした。
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