奈良時代②〜長屋王の怨霊から墾田永年私財法まで、聖武天皇の話

奈良時代の2回目。今回はまるまる聖武天皇のころについて話します。奈良時代のメイン、とても赤率が高いところなので、しっかり覚えましょう。

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聖武朝の主な出来事

多賀城設置
729長屋王の変
秋田城設置
〈737〉藤原四氏が相次いて死亡→橘諸兄登場
740藤原広嗣の乱
〈740〉恭仁京遷都
〈741〉国分寺国分尼寺建立の詔
743墾田永年私財法
743大仏造立の詔
〈744〉難波宮遷都
〈745〉紫香楽宮遷都
〈745〉平城京遷都

奈良時代の勉強法

聖武天皇の話をする前に、奈良時代の勉強方法について触れておきます。持統天皇との約束により、元明・元正天皇のころは藤原不比等が実質的に政治を動かしていました。これはとても大きな出来事だったんです。

何故かと言うと、「天皇に代わって政治を行う」ポジションが生まれたから。不比等が亡くなったら、じゃああとは元正天皇が政治をやりますかというと、そうはなりません。

他の誰かが新たにこのポジションになります。つまり、奈良時代は天皇の他、そのときの政権担当者ってのが必ずいたのです。必ずこの2人をセットで覚えなければいけません。

ただ、逆を言えば、この2人がそれぞれ何を考えているのかが分かれば、奈良時代は覚えなければいけないことがビシッとハマってきて、簡単だと思えると思います。必ず天皇とセットでその右腕を覚えること。

聖武天皇

長屋王の時代

前回、元正朝の途中で藤原不比等が亡くなった話をしました。そこからは左大臣の長屋王(ながやおう)が政権を担当します。天武天皇の孫で、文武・元正の従兄弟にあたる人。頭もキレキレで、能力・家柄ともにNo.1の人でした。

なんで藤原氏が続かなかったのか。単純に長屋王がスゴいのもあるけれど、それ以上に天皇と藤原氏の女性の間にできた子を次の天皇にする約束があったからでした。右腕ポジじゃなくても、地位が安泰だったのです。

ただ、そう思ってた矢先に藤原氏にとってとんでもないことが起きます。それは聖武天皇と不比等の娘・光明子との間に男の子ができなかったんです。いたにはいたんだけど、幼くして死んでしまった。それ以降2人目が生まれていませんでした。

肝心の男の子ができなかったら、この藤原氏の安泰は一気に崩れてしまいます。そして今は長屋王というスゴい人がいる。皇族であることも含め、次の天皇はそこから出る可能性が高かったんです。不比等の子どもたちは慌てます。

子どもたちとは、光明子に加えて武智麻呂(むちまろ:家)・房前(ふささき:家)・宇合(うまかい:家)・麻呂(まろ:家)の4人を指します。まとめて藤原四氏と呼び、その子孫を「◯家」と分けて呼びました。

4人は自分たちの娘を聖武天皇の后にするなど、いろいろな手を尽くしますが、結局男の子は生まれませんでした。そこで最終手段、長屋王を消すという禁断の方法に出ます。729年、長屋王の変。無実の罪を着せられ、長屋王は自殺します。

藤原四氏の時代

長屋王を消すことで、藤原四氏が右腕ポジションを獲得します。そして兄弟の光明子を后の1人から天皇の正妻である皇后にランクアップさせます。皇族以外で皇后になった初の人です。藤原氏的にはこれでひとまず安泰を取り戻したはずでした。

しかし、本当の悲劇は実はこれからでした。というのも、当時天然痘(てんねんとう)という伝染病が大流行していました。そしてなんと4人全員が4ヶ月以内に亡くなってしまったんです。あっという間に時代が終わります。

聖武朝の蝦夷対策

ちょっと話は前後するけれど、元明天皇のときの出羽国設置に続き、聖武天皇も蝦夷対策を行いました。724年に多賀城(陸奥国)を、733年に秋田城(出羽国)を作りました。

特に大事なのが多賀城。九州の大宰府と同じように、蝦夷対策として大きな権限が渡されました。この機関を鎮守府(ちんじゅふ)と言います。秋田城も含め、東北全体の管理を行いました。

以上が長屋王と藤原四氏によって支えられた聖武天皇の前半の話です。

橘諸兄の時代

藤原四氏が亡くなり、次の人に右腕ポジションが移ります。とは言っても、朝廷内で天然痘が流行りすぎ、藤原四氏に限らずエラい人が軒並みぶっ倒れてました。そして選び出されたのが橘諸兄(たちばなのもろえ)という人です。

もともと皇族で葛城王(かつらぎおう)と言ったんだけれど、一般人になって母親の姓を名乗っていました。皇族のままでは上にいけないので、そこから出て貴族になっていたのです。この話はまた平安時代でします。

この橘諸兄が右腕ポジになり、左大臣に昇進、遣唐使帰りの吉備真備(きびのまきぎ)と玄昉(げんぼう)を補佐にして政治を行います。

ちなみに、吉備真備は吉備地方の真備さんという意味です。東京の小池さんみたいなもの。吉備地方とは現在の岡山県、もちろんお土産の1つが桃太郎の腰にあることで有名な「きび団子」ですね。

藤原広嗣の乱

この状況に藤原広嗣(ひろつぐ)という人がブチ切れます。この人は藤原宇合の長男。父親のエラさに調子にのってたら、大宰府に左遷されていました。そのときの位を太宰少弐(だざいしょうに)といいます。

政権担当者がパパたちから橘諸兄らに代わったことで、反乱を起こしました。740年、藤原広嗣の乱です。場所はもちろん大宰府。朝廷から派遣された大野東人(おおののあづまひと)率いる軍によって、あっという間に鎮圧されました。

聖武天皇の血迷い

ここで聖武天皇についての説明を加えます。前回までに話したように、天武以降のこの家系は男子が生まれにくく、また早死が続いていました。実際、聖武も身体の弱い人だったんです。

聖武天皇は自分の家系が呪われていると思っていました。

ただでさえそんな不安な気持ちだったのに、そこにきて嫁さん(=光明子)の家族が自分の権力を維持するために長屋王を滅ぼす事件を起こしてくれちゃいます。しかもすぐにその自分たちが病に倒れてしまった。

この4人の死は長屋王の祟りだと思い始めるんです。当然、長屋王の怨霊は次は光明子を祟るだろうし、聖武自身、光明子の姉の息子でもあったので、自分もただじゃすまないと思っていました。

そもそも、自分が男の子に恵まれないのもこれが原因なんじゃないか。こうやってありとあらゆることが長屋王の怨霊のせいに見えてきてしまいます。聖武天皇の後半の話はこの怨霊との戦いとなります。

都の遷都

そこでまずは「その場から逃げる」選択をしました。長屋王の墓から距離を置けば、少しはマシになるんじゃないかと思っていたのです。最初に移ったのが740年、山背国恭仁京(くにきょう)です。

これをスタートに744年に摂津国難波宮、745年に近江紫香楽宮(しがらきのみや)、そして同年745年に平城京に戻るということをしました。

正直、なんでこんなに引っ越しをくり返し、最後には戻ったのか、よく分かっていません。

2つの鎮護国家思想

聖武が怨霊対策で行ったことの2つ目は、仏教の力を使って怨霊の怒りを抑えるものでした。仏教の力で国の安定を図ることを鎮護国家思想と言います。何が国の安定だよ、完全に個人的なことだろって思うけどね。

この鎮護国家思想のもとでやったことが2つ、まずは741年の国分寺国分尼寺建立の詔です。全国に国分寺と国分尼寺を立てて、その地域を仏教パワーで支配しようとするもの。中心寺院として平城京の近くに東大寺が建てられました。

もう1つが743年の大仏造立の詔です。いわゆる奈良の大仏を立てると宣言しました。この大仏、当時世界最大の銅像でした。金も労力かけてそんなデカいものを作る。いかに聖武天皇がビビっていたかの証拠です。

墾田永年私財法制定

散々調子にのっていた藤原氏。怨霊にビビっておとなしくなるはずはありません。むしろ世界最大の大仏を作るということまでしてるんだから、もう大丈夫だろうという安心感を持ちます。そしてさらに権力をむさぼることをしました。

それが大仏造立の詔と同年の743年、墾田永年私財法です。今、土地は三世一身の法によって孫の代まで持つことができるようになったけど、そのあとは国に返される、つまり土地はあくまでも国のものでした。

それを「私財法」という名の通り、私有できる法律を作ったのです。よく「3世代じゃ物足りなくなったから永久に」みたいな説明をされますが、大事なのはそこではありません。

あくまでもこの「私有」をOKにしたことが重要なんです。

これまで、力は結局国家が持っていました。どんだけ稼いでも、その人が死んでしまえばその財産基盤である土地は国が没収、リセットされてしまうからです。ただ、この法律によってイチ個人が代をまたいで貯めることができるようになった。

ここからじわりじわりと藤原氏が力を貯めていき、約300年後、藤原氏は「いやー、もう好きなことなんでもできちゃうなあ」っていうような最強の時代を迎えます。

そのスタートがこの墾田永年私財法。光明子が旦那に作らせたとんでもな法律でした。以上が奈良時代の1番メインのところ、聖武天皇の話でした。

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