飛鳥時代③〜中大兄皇子後編、斉明・天智天皇の話

飛鳥時代の3回目は「中大兄皇子後編」です。 引き続き中央集権体制の国づくりをしながら、最後は自分が天皇になるところの話です。

スポンサーリンク

斉明・天智朝の主な出来事

〈658〉阿倍比羅夫が蝦夷征討
〈658〉有間皇子の変
〈660〉唐・新羅が百済を滅ぼす→百済救援軍派遣
〈660〉斉明天皇死去@九州朝倉宮
663白村江の戦い錦江河口
〈664〉甲子の宣
667〉近江大津宮遷都
〈668〉近江令制定:最初の令
〈669〉中臣鎌足、死去→藤原の性と大織冠を送られる
670庚午年籍作成:最初の全国的戸籍

斉明天皇

中大兄皇子は孝徳天皇を見捨てました。ただ、まだまだ表に出るわけにいきません。そこで再びお母さんを引っ張り出してくる策に出ます。元皇極天皇が名前を変えて再登場。斉明天皇です。

有間皇子の変

このように天皇経験者が再び皇位につくことを重祚(ちょうそ)と言います。 この交代は中大兄皇子のある種身勝手な交代です。「は?」って思ってる人も当然いるわけで、前回も出てきたお掃除が必要でした。

今回のお掃除対象は有間皇子。孝徳天皇の息子で、親父が天皇なら次は自分だと思っていました。もちろん、孝徳が天皇になった経緯を知っていれば「そんなことあるか!」なんだけど、中大兄皇子の身勝手な行動が許せない。

この空気は中大兄皇子もバンバン感じていて、これは掃除しておかないとあとあとめんどくさいなと考えます。その方法がえげつない。

蘇我赤兄(あかえ)に「中大兄皇子じゃだめ、やっぱり天皇は有間さまですよ!」と言って反乱をそそのかしてもらい、有間が立ち上がった瞬間に「ああ、反乱起こしたやつは死刑ね」と言って一気に潰したのです。

阿倍比羅夫の蝦夷征討

さて、天皇が変わっても操作しているのは中大兄皇子、やることは変わりません。孝徳のときに作った基地を使っていよいよ蝦夷征討に乗り出しました。派遣されたのは阿倍比羅夫(あべのひらふ)という人。

3年かけて結構たくさんの蝦夷を服属させました。さっそく「あべ」の2人目が出てきましたね。必ず漢字を確認すること。斉明天皇の時代で覚えなければいけないのはこの2つの出来事くらい。

百済滅亡

ただし、日本史という物語の中ではひとつの大きな事件がこの時期に始まります。それが百済の滅亡でした。 660年、唐と新羅が手を組んで百済を滅ぼしました。

ちょっとだけ背景に触れると、まず唐が朝鮮半島への領土拡大を狙っていました。ただ、一番近い高句麗を落とすのが地味につらかった。事実、前の隋も苦戦したことを聖徳太子のところで触れたと思います。

そこで協力して挟み撃ちしてくれるところを探していました。もちろん高句麗を落とした後はそのパートナーも滅ぼして朝鮮を全部ゲットする考えです。そのポジションを狙ったのが新羅でした。

新羅は後に朝鮮半島を支配しますが、この時は一番弱い国でした。しかも百済の攻撃を受けて滅亡寸前。それで一先ず唐のパートナーとして生き延び、頑張って高句麗と百済を支配下に置いて唐に抵抗するというプランを立てたのです。

こうして両者は一緒になり、まずは百済を滅亡させました。 この状況を中大兄皇子は注意深く見ていました。なぜ中国と朝鮮の関係が大事かというと、それが直接日本の存亡に関わるからです。

今のままだといずれ唐が朝鮮半島を支配することになります。そうなると次に唐が攻めるのは間違いなく日本。朝鮮半島まで支配した唐には100%勝てません。攻められないためには日本の前、つまり朝鮮にガードが必要だったのです。

この話は日清・日露戦争のところでも全く同じことが出てきます。ロシアからの攻撃を避けるために朝鮮を存続させる、地理的な要因はどちらかが滅んだりしない限り、なかなか消えないのです。

ここで中大兄皇子は大きな決断をしました。百済を助けるために朝鮮半島で唐・新羅タッグと全面対決をすること。高句麗が頑張ったように、少なくとも一度追い返すことができれば、百済が再興して親日の国になってくれます。

日本にとってのガードができるわけです。さっそく中大兄皇子と斉明ママは指揮をするために九州に向かいます。でも斉明天皇ももう結構なお年。長旅に疲れて行った先で亡くなってしまいました。最後にいたところ、九州の朝倉宮を覚えておいてください。

天皇空白

斉明天皇が亡くなったあと、しばらくは天皇がいませんでした。朝鮮半島での戦争が最優先であり、中大兄皇子が天皇にならずに自ら指揮を執ったのです。この状況を称制と言います。称制と重祚をごっちゃにしないように注意。

白村江の戦い

そしてついに戦ったのが663年、白村江の戦いです。場所は百済の錦江(きんこう)という川の河口。ここで日本軍は大敗を喫します。まあ、正直これ当たり前の結果だよね。。。

でも、これで中大兄皇子は少し人が変わってしまうのです。簡単に言うと超ビビリになりました。自分で指揮した軍隊がビックリするくらい呆気なく負けたのだから当然と言えば当然。

「やばいよ、相手を刺激しちゃったよ、全力でたたきのめしに来ちゃうよ」と思い、そこからとにかく国土防衛に走りました。 具体的に作ったのが4つ。防人(さきもり)・(とぶひ)・水城(みずき)・朝鮮式山城です。

防人は中国・朝鮮に最も近い九州地方を徹底的に守るための兵隊。自分で志願してなる自衛隊と違い、この防人は徴兵制的なものなので、国民の義務の話として律令制度のところで詳しく話します。

烽は「のろし」のこと。煙を上げるやつね。結構遠くからでも見えて、見えたら自分も上げることでさらに遠くの人に伝わります。メールも電話もない時代に、九州から大和へ危機が迫ってることを瞬時に伝えるシステムを作ったのです。

水城はお城の周りに作るお堀と、防波堤のような壁をセットにしたものです。もちろんすぐに入って来れないようにするためのもの。

山城は簡単に言えば展望台。高いところから見てれば敵が来てるのを遠くから見えるよね。この山城は例を2つ覚えましょう。福岡にある大野城と佐賀にある基肄城(きいじょう)です。

次に、国内のみんなのご機嫌取りをしました。外交でミスって支持率がちょっと落ちているを戻すため、改新の詔で人間も土地もみんな天皇のものね!って言ったのを少し譲歩したのです。

「豪族のみなさまのすごさがようやく分かったような気がします。これからはもっと高い位にするし、部曲も認めるよ」って内容でした。これを甲子の宣(かっしのせん)と言います。

この2つでひとまず敗戦の応急処置が終わり、ついに中大兄皇子が天皇になります。

天智天皇

ついに中大兄皇子が自らトップになりました。天智天皇の基本方針はビビりながらも律令体制国家を作るということです。まずビビってた証拠として都を内陸に引っ込めました。667年に近江大津宮、今の滋賀県です。

そして翌年に最初の令を出します。近江令です。これまではまだ改新の詔しか出されていません。これはあくまでも基本方針を表明したもの。それに関する具体的な法律はまだ何もないのです。内容はいいので、「最初の令=近江令」だけは必ず覚えましょう。

庚午年籍作成

次に、律令国家になるためには国民をちゃんと把握できていなければいけません。それがないと税金をちゃんと集めることができないからです。ましてやお堀とかお城とかいろんなものを作りまくってる最中、金が大量に必要でした。

だから急いで戸籍作成を行いました。ここで作られたのが庚午年籍(こうごねんじゃく)、670年に作られた日本で最初の全国的な戸籍です。これは永久保存とされましたが、現存していません。その理由が次回の大きなテーマです。

ちなみにちなみに、庚午年籍作成の前年、一緒に国を変えた中臣鎌足が死にます。そこでそれまでの業績を評価して大織冠という記念品と、藤原の性を与えました。後にやりたい放題をやっていく藤原氏の誕生です。

スポンサーリンク