平安時代⑦〜後三条・白河天皇の話と院政のしくみ

藤原氏の力が途切れた瞬間から院政の開始までの話です。 タイトルに「天皇」が付くのは今回が最後。次回は院政で話は上皇のことになり、そのまま鎌倉時代に突入、中心人物が武士になっていきます。

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後三条・白河朝の主な出来事

1069延久の荘園整理令
1083後三年の役

後三条天皇

藤原基経に男子が生まれなかったので、藤原氏と外戚関係のない後三条天皇が誕生します。外戚関係がないのは宇多天皇以来。このチャンスに藤原氏を撲滅しないと日本はダメになると考えた人でした。

延久の荘園整理令

藤原氏の力を弱めるためには何をする必要があったかを覚えてますか?土地を奪うことです。藤原氏の富みは荘園から入ってくるお金だから。奈良時代に称徳&道鏡ペアが加墾禁止令を出したのも、荘園を増やさせないためでした。

そこで 後三条天皇は1069年に延久の荘園整理令を出してこれを行います。内容は怪しい荘園を全部廃止して公領に戻すことと、今後荘園が増えないように監視する機関を作ることでした。

具体的には①寛徳2年(1045年)以降にできた荘園・②国務の妨げになる、要は邪魔な荘園・③寄進していることを示す証拠書類がない荘園を全て廃止しました。またチェック機関として記録荘園券契所という役職を作っています。

これを作ったのが後三条のブレーンであった大江匡房(まさふさ)です。藤原氏に滅ぼされた菅原道真と同じく、学者の家柄の人。もちろん道真と同じく蔵人です(蔵人頭だったかどうかまでは知らない)。

それから延久の宣旨升(せんじます)というものを作りました。このころの税金はお米、きちんと取るためには決まった計量器が必要でした。今までありとあらゆるものが崩壊していたので、改めてオフィシャルな升(公定升)を作ったのです。

院政とは?

藤原氏の力を弱めたし、前九年の役もこの時期に終わって天皇の力がより全国に行き渡るようにはなりました。けど、後三条天皇朝で起こったことは一応そんなもん。藤原氏を撲滅すると意気込んでいたわりにはちょっと微妙です。

実は後三条天皇の本当の凄さは、実はここからが本領発揮でした。

前回言ったように、藤原氏の影響力は天皇のおじいちゃんになることで生まれていました。と言うことは、自分がいくら頑張ってもあとに続く天皇に藤原氏のおじいちゃんがいたら元に戻ってしまうのです。

実際、後三条天皇も奥さんの1人に藤原氏の女性がいて、次の天皇となるであろう長男は、その女性との間に生まれていました。だから何もしなければ確実に元に戻るのが約束されてしまっているような状態だったのです。

そんなときに、あるアイディアを思いつきます。それは、もしおじいちゃんとお父さんの両方が指示を出したら、それはさすがにお父さんの方が強いなってこと。親父である自分が天皇とおじいちゃんの会話をぶった切ればいいと思ったんです。

これを仕組みにしたものが「院政」です。上皇の力をムチャクチャ強くすることで、ジジイからお子ちゃまへのコントロールを良識あるオヤジがカットすることで、正しい方に導く政治体制です。

結論を先に言うと、院政の開始はこの後三条ではなく、次の白河天皇からでした。息子の白河に譲位はしますが、ただの上皇として院政の準備を整え、皇太子を白河の弟に決めたところで残念ながら病死します。

白河天皇

ということで、白河天皇の時期というのは、裏で父親の後三条がいろいろ動いている時期であり、はっきり言って天皇としては何もしていません。ただし、事件は起こります。

1083年、後三年の役です。前九年の役で手助けをしてくれた清原氏。当然このときにご褒美をもらってより力を持っていました。というか東北をほとんど預かっていました。その中で一族の内紛が起きます。東北地方一体だったので大事件でした。

なぜ身内で喧嘩が起きたのかは、奥州藤原氏の説明まで待って下さい。

前九年の役と後三年の役は名付け方からセットで考えられるし、実際地域も同じです。ただ、前者は元蝦夷による反乱で、後者はただの一族同士の喧嘩です。性質はだいぶ違うので注意。前回も出てきた源義家が、今度はサラッと鎮圧しました。

院政の仕組み

後三条天皇が作り上げた院政の仕組みをまとめて今回の話を終わりにしたいと思います。覚えることは5点。①場所②命令③役人④警備⑤経済基盤です。

まず、上皇が政治を行った場所を院庁(いんのちょう)と言いました。ここでお仕事をしていた役人を院司(いんのつかさ)と言います。藤原氏を意識して中流貴族から頭のキレる人が選ばれ、中には側近(=院の近臣)となる人も出てきます。

天皇の命令が詔勅とか詔などと呼ばれるのに対し、上皇からの命令は院宣or院庁下文(くだしぶみ)と呼ばれました。この2つは区別があります。

上皇からのきちんとした命令は院庁を通す正式なプロセスを経て出されます。これが後者の院庁下文。一方、天皇の言うことを止めたり、思いついたことをさっさと実行するためにちょっと砕けた感じで私的に出す命令、これを院宣と言います。

これらの仕組みは制度としては元からあるものでした。そもそも上皇自体、前からいたわけだし。そういう意味では完全に新しいものを後三条上皇が作ったわけではありません。ただ、それぞれの本気度という意味ではやはり別物です。

そして完全に天皇から独立した立場になるので、その維持費であったり、警備であったりというのは新しく作る必要がありました。この④⑤については徐々に整備されていくものなので、次回、できたタイミングで話をしたいと思います。

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