鎌倉幕府の仕組み〜統治機構と守護・地頭の話

鎌倉時代の話に入ります。まずは鎌倉幕府の統治システムと、幕府と御家人の関係について。京都から離れた鎌倉で、武士がどのように政治をおこなっていたのかをまとめます。まずはそもそも幕府って?という話からいきましょう。

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鎌倉幕府とは

鎌倉時代を理解する上で1番大事なことは、鎌倉幕府は日本という国の中で、もう1つ別の政治体制として存在したものだということです。極端に言えば、シリアという国の中にイスラム国という別の集まりができているような状態。

イスラム国に加わる人は、別にリーダーに惹かれたから入っているのではなく、社会の理不尽さへの抵抗や、イスラム教社会を作るという、「目指すもの」があって入っているのでしょう。

幕府はこれとかなり近いものです。「武士が認められる社会」を求める人が全国にいて、頼朝はたしかにそれを引っ張ってはいたけれど、同時にそういう人たちみんなによって代表者に担がれている部分が強くありました。

だから、頼朝が何かを言えばみんなが従うという状態では全然ありません。幕府に従う武士のことを御家人(ごけにん)と言うけれど、しっかりと契約関係を結んだ上で、「では、私は鎌倉幕府の味方をします」というドライな関係だったのです。

ちなみに、「幕府」とは将軍が現地に作った基地のことを、江戸時代の人がそう名づけたものです。なので、それこそイスラム国のように強烈な集団意識はあったはずだけど、「幕府」と書かれた看板や建物は一切なかったんだよ。

鎌倉幕府の統治システム

京都にいる貴族は、律令制度の中で二官八省一台五衛府、あるいは国司を始めとする地方の仕事が決められていました。武士にはそういうカチッとした制度はなかったけれど、それでも統治機構はしっかりしたものを持っていました。

中央:執権・連署・評定衆・引付衆・侍所・政所・問注所

まずは中央、つまり鎌倉に置かれた役職から話していきます。最初に、当たり前だけど将軍が全ての武士のトップに立つ男として鎌倉にいました。ただし、これはすぐに役目を終えてしまいます。

次に、将軍を補佐する執権です。補佐すると言っても、将軍が力を失って名目だけになったあとで、実質的なトップとして立ち回りました。こうして執権がエラくなってから、その秘書的な役割として生まれたのを連署と言います。

あとは評定衆引付衆、この2つは裁判に関するもの。ここまでは全て政治の中で触れていくので、次回以降で詳しく話していきます。とにかく、将軍の下にこの4つがいることを押さえてください。律令制度で言えば「大臣/◯納言」クラスです。

その下に律令制度の「省」にあたるものが3つ、侍所(さむらいどころ)・公文所(くもんじょ)・問注所(もんちゅうじょ)が置かれました。侍所は軍事や警察の役割。「武士たち集まれー」って言ったり、罪人を牢屋にブチ込んだりします。

問注所は裁判を取り仕切ります。武士は律令に規定が一切ないので、揉めごとがあるとケンカで勝負を決めるしかなかった。それをなんとかしてほしいのが全武士の願いであり、責任持って幕府がやってくれることでみんな従ったのです。

最後の公文所は政治や経理担当です。侍所が警察署、問注所が地方裁判所、そしてこの公文所は市役所や役場みたいなものと思ってください。これはすぐに政所(まんどころ)と名前が変わりました。頼朝が昇進したからです。

公文所も政所も、役所という意味では同じです。区別はそこのトップがエラいかどうか。普通のクレジットカードか、ゴールドカード以上を持てるかくらいの違いと思えばいいでしょう。

1185年に頼朝が守護・地頭の任命権を手に入れたのを機に、ゴールドカード所有者レベルになったのです。ちなみに公文所と問注所は1184年に、侍所はそれより早い1180年にできています。

侍所・公文所・問注所のトップ

3つの機関については初代のリーダーを覚えてください。リーダーのことを、侍所と公文所は別当(べっとう)、問注所は執事(しつじ)と言いました。問注所だけ違うから注意ね。

侍所別当が和田義盛。次回滅ぼされます(笑)。公文所別当は大江広元。記録荘園券契所で出てきた大江匡房の孫になります。問注所執事は三善康信(みよしやすのぶ)。貴族なんだけど、母親が頼朝の乳母の妹で、昔から頼朝と仲良しでした。

地方:京都守護・鎮西奉行・奥州総奉行

続いては鎌倉以外の話です。幕府は鎌倉以外で特に重要なところに独自の役所を置きました。重要な場所というのが3ヶ所、朝廷のある京都、外交の要の九州、そして東北、もともとは奥州合戦の後処理として設置したものでした。

この3つをそれぞれ京都守護鎮西奉行奥州総奉行と言います。全部微妙に違うので気をつけてください。前2つは1185年に、奥州総奉行は奥州合戦が行われた1189年に作られています。

全国:守護と地頭

もう1つ、幕府は全国に守護と地頭を置きました。前々回にやった通り、もともとは義経と行家を捕まえるという名目だったものを、うまく使って幕府は支配を固めていきます。

守護の仕事

守護は国単位で置かれるもので、最初のころは惣追捕使(そうついぶし)と呼ばれました。基本的には有力御家人が選ばれ、その地域の治安維持を主な仕事とします。

具体的には大犯三箇条(たいぼんさんかじょう)と言って、反乱を起こしたものを捕まえる謀反人逮捕、殺人を犯した者を捕まえる殺害人逮捕、そして借金の返済を迫る大番催促を行いました。

地頭の仕事

一方、地頭は荘園や公領ごとに置かれ、土地の管理・運営や税金の徴収を主な仕事としました。地頭が集めてくる税金が幕府の主な財源です。具体的には3種類の土地がありました。

1つ目は関東御領(かんとうごりょう)です。将軍が自分で持っている荘園のことで、特に平家を滅ぼして手に入れたところが無茶苦茶たくさんあり、約500ヶ所くらいありました。

2つ目は関東知行国です。頼朝は後白河法皇から東国の支配を認められました。これは東日本にある公領の支配も任せるということで、国司という形で地頭を任命します。別名関東御分国(ごぶんこく)とも言い、全部で9ヶ所ありました。

3つ目は関東進止所領(しんししょりょう)。これは受験ではかなりマニアックですが、簡単に言えば管理代行をしている土地です。武力を持っていない貴族や寺社から管理の仕事を請け負うという形で収入を得ていました。

御恩と奉公

地頭に関してはもう1つ。上の方で、幕府と御家人は契約関係を結んだと言いました。それが「御恩」と「奉公」というもの。幕府が御家人に約束するものが御恩、御家人が幕府に約束するものが奉公です。

幕府が御家人にしてあげなきゃいけない1番大事なことは、所有地を認めてあげることでした。これを本領安堵(ほんりょうあんど)と言います。まずはそれをしてもうらことで、武士は幕府に従います。

どう従うのかというと、戦いのときは一緒になって戦い、何もないときはガードマンとして警備にあたることでした。戦うことを軍役と言い、たとえ遠くにいたとしても、非常時には「いざ鎌倉」といって急いでかけつけます。

一方、何もないときの仕事を御家人役と言いました。内容は3つ、①京都大番役鎌倉番役関東御公事(おんくじ/みくじ)です。①と②はそれぞれ京都や鎌倉でガードマンをすること、③は公共事業に対してみんなでお金を負担することでした。

こうして御家人がきちんとお仕事をしたら、それに対して幕府はまた新たな土地を与えるということで感謝をします。これを新恩給与と言いました。この循環によって、武士の仲間意識はより強いものとなっていったのでした。

まとめると、御恩は本領安堵と新恩給与の2つ、奉公は軍役と御家人役となります。そして、この御恩は地頭に任命するという形で行われました。

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