鎌倉時代③〜御成敗式目完成、北条泰時・経時・時頼の話

鎌倉時代の3回目は北条泰時・経時・時頼の3代の執権について話します。ちょっと行ったり来たりが多いところで、読みづらいかなと思うけれど、覚えなきゃいけない出来事は泰時が4つ、経時が1つ、時頼が3つしかありません。

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泰時から時頼の主な出来事

〈1225〉連署設置
〈1225〉評定衆設置
〈1226〉摂家将軍九条頼経就任
1232御成敗式目制定
〈1244〉九条頼嗣、将軍就任
〈1247〉宝治合戦
〈1249〉引付衆設置
〈1252〉皇族将軍宗尊親王就任

3代執権北条泰時

最初に、パパである2代執権北条義時がやったことを簡単に復習します。まず和田合戦で勝利し、幕府の中で圧倒的な権力を手に入れました。具体的には侍所と政所の別当を兼務しています。ほぼ幕府内の統率を終えた状況でした。

そして承久の乱で上皇に勝ち、西国への支配力も手に入れました。これによって全国の暴走族をたった一族でまとめあげているといった状況が完成したのです。3代執権北条泰時はこの状態からスタートします。

連署設置

義時がうまくいった要因の1つに、北条政子の存在がありました。パパの時政がトチ狂ったときも一緒に引きずり下ろしたし、承久の乱では大演説をやってもらったことがマジで最大の分かれ目となっています。

政子は泰時が執権になってすぐに亡くなってしまいますが、この補佐の重要性をよく理解し、その人の正式なポジションを作りました。一緒にサインをするという意味で連署(れんしょ)と言います。もちろんいつも一緒の北条時房おじちゃんね。

評定衆設置

最初に言ったように、「たくさんの人が従ったよ、さあどうする?」ってところから泰時の時代は始まりました。つまり、ここでいい政治ができるかどうかが、今後も幕府が安定するかどうかの分かれ目になる状態でもありました。

そこで、泰時は自分が揉めごとを解決する、つまり裁判官になる方向を選びます。これまで何回も繰り返してきたように、律令制度に当てはまらない武士たちには、揉めごとがあとを断ちませんでした。

武士という立場をきちんと認め、揉めごとをしっかりと解決してくれる存在。それが武士が求めることであり、泰時もこのことはちゃんと理解していかからこそ、トップである自分がその1番重要なことをやるべきだと考えたのです。

そこで、幕府の運営を侍所・政所・問注所という体制から一新し、大きく政治運営を行う評定衆という機関を作ります。これはだいたい12人程度の強い武士を集め、そこに執権と連署が加わり、合議制の機関として機能しました。

このように政治については有力者たちに加わってもらい、自分は揉めごとにきちんと耳を傾けることをします。北条氏の味方かどうかは別として、この泰時の姿勢は後々になってまで、さまざまな人に評価されているんです。

4代将軍九条頼経就任

後鳥羽上皇の策略に嵌りそうな実朝を滅ぼしてしまった鎌倉幕府。もう源氏はいません。かと言って、幕府を存続させるためには「将軍」というポジションに人がいなければいけない。

普通なら「じゃあ北条氏がなればいいじゃん」って思うところだけど、上皇に将軍と認められているのはあくまでも源氏、このことを無視して北条氏がなることは反抗になってしまうのでできないんです。

そこで義時は京都に行き、皇族から誰か将軍を出してくれということをお願いしていました。ただ、相手はお気に入りの実朝を殺されて怒り狂っている後鳥羽上皇。鎌倉に皇族を派遣するのは人質を取られるものと思い、これを拒否します。

ただ、このとき義時は武士1000人を連れてました。もう完全に脅しです。ヤクザだからね。まだ西面の武士を作る前で、後鳥羽上皇には戦う力がありません。仕方なく貴族を派遣することで折り合いがつきました。

その将軍がここで到着します。もともと藤原氏の九条頼経です。藤原氏は平安期の隆盛が終わったあと、5つの家に分裂していました。総称として五摂家と呼びます。

それぞれ近衛(このえ)・鷹司(たかつかさ)・二条九条一条の5つ。「このタカはニクい」で覚えよう!

御成敗式目制定

裁判官として揉めごとの解決をしていた泰時。ただ、忘れてはいけないことは、今のような刑法がありません。「律」が刑法だったろと思う人がいるかもしれませんが、律令自体がもやは現実に合ってないからこそ、武家政権ができたのです。

そこで泰時は、武士用の法令を作ります。それが1232年、御成敗式目です。全部で51条あり、武士の感覚では当たり前のこと(=道理)をベースに、頼朝がやっていたことを先例として組み込んで作っていきました。

これに加えて大事なことは3点。①これが最初の武士のための法令であったこと。②武士はそんなに勉強している人が多くないので、ムチャクチャ分かりやすく書かれていること。③後から加えられたものを式目追加ということです。

注意してほしいのは、これは武家法なので、貴族や農民には関係ありません。逆にそれらはそれぞれ公家法・本所法というのが別にあります。もちろん鎌倉幕府が制定したものじゃないよ。

内容としては悔返(くいかえし)と20年年記法を知っておきましょう。前者はムリヤリ取られた土地をちゃんと取り返せる権利、ただし取られてから20年経ってしまったものはもう時効ねっていうのが後者です。

4代執権北条経時

続いては4代執権です。この時代は本当に何もありません。強いて言えば上で話した将軍が、執権の代交代とともに代わったこと。5代将軍九条頼嗣(よりつぐ)です。

一応理由を話しておくと、北条氏の中に争いが起きました。詳しくは次の次の回で話すけど、藤原氏の氏の長者をめぐる戦いのようなものがあったのです。そして九条頼経はこの反北条経時側の人間と仲良くしていたのでした。

というのも、もともと九条頼経は父が摂関家のトップにいる人でした。そいつが密かに幕府まで支配してしまおうと企んでいたのです。頼経は鎌倉に来た際はまだ3歳でしたが、大人になり、父と同じ思いの元でいろいろ動いていたのです。

そこで、幕府はこのめんどくさくなった奴を強制送還し、代わりにまだ幼くて何も分からない子どもを将軍とします。

5代執権北条時頼

宝治合戦

まずは宝治合戦です。和田合戦のところで、北条氏のライバルはあと三浦氏が残っているという話をしたのを覚えているでしょうか。北条氏ちょっとウゼーなと思っている人は、みんな三浦氏の元に集まってきてしまう状態でした。

鎌倉幕府の中になんで反北条がいるんだというのは、あまり気にしないほうがいいです。今だって自民党の中に反安倍っているでしょ?民進党を相手にするときは一緒になるけど、中では争っているというのは全然普通にあることです。

ということで、1247年、北条vs三浦の戦いが起こりました。これを宝治合戦と言います。戦い、そして敗れたのが三浦泰村(やすむら)。梶原景時・比企能員・畠山重忠・和田義盛に続く、北条氏の他氏排斥事件⑤です。

引付衆設置

次は引付衆の設置です。武家政権がだんだんと成熟し、幕府の仕事も裁判の数も少しずつ増えていました。簡単に言えば人手不足です。ただ、評定衆は有力者による合議制機関という性格上、むやみに人を増やせません。そこで補佐を作ります。

それが引付衆です。仕事内容としては裁判のめんどくさい手続きの部分を主に担いました。裁判に関する事務作業を中心に、評定衆の補佐をしたと覚えておきましょう。

6代将軍宗尊親王就任

最期はまたまた将軍の交代です。さっきも出てきた九条頼経の親父、つまり頼嗣のジイさんが年で焦ってきたのか、より反幕府の姿勢を強く出していました。幕府は頭にきている状態。

そんなタイミングで天皇からとってもいい話が入ってきます。このとき、天皇は後嵯峨天皇という人でした。この人は宗尊親王(むねたかしんのう)という息子をとても愛していました。ただ、母親の身分が低く、エラくなるのは正直ムリな状況。将来をとても心配していたのです。

このお互いの状況がそれぞれ耳に入り、「じゃあ宗尊親王を将軍にしない?」という話になります。もう双方にとってメリットしかなく、すぐに決定します。鎌倉幕府6代将軍宗尊親王、幕府にとって念願の皇族将軍となりました。

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