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鎌倉時代⑥〜皇統の分裂と幕府の滅亡

鎌倉時代の最終回、後醍醐天皇によって鎌倉幕府が倒される話をまとめていきます。

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14代執権北条高時の主な出来事

☆皇統の分裂
〈1317〉文保の和談
〈1324〉正中の変
〈1331〉元弘の変
1333鎌倉幕府滅亡

後醍醐天皇とは

後鳥羽上皇が承久の乱で負けて以降、受験日本史では特に天皇や上皇を覚える必要がありません。幕府の動きが大きすぎて、これといって特別なことをやれていないからです。

ただ、ここでいきなり後醍醐天皇が登場し、わずか一代で鎌倉幕府滅亡をやりとげます。「誰?www」って話。そこで後醍醐天皇が何者で、何を考え、そして何をしたのかという3点をまとめます。

皇統の分裂

まず、話は後醍醐天皇の曾祖父さんから始まります。後嵯峨法皇という人で、こいつがなかなかのポンコツでした。というのも、彼には2人の息子がいたんだけれど、弟の方ばかりを愛していたんです。

そこで、一度は長男の後深草天皇を即位させるんだけど、すぐに弟の亀山天皇に譲位させることをします。後嵯峨が治天の君だからそれができるのです。そして皇太子も亀山天皇の子にします。

天皇家というのは、基本的に長男が嗣ぐのが当たり前になっていました。だからこの後嵯峨がやったことはかなり異例のことだったのです。しかも、さらに悪いことに、財産については2人に二分していました。

上皇の主な収入は八条女院領と長講堂領という2つの荘園から得ていました。八条女院領を弟の亀山に、長講堂領を兄の後深草に相続させます。ここに力も金もほぼ同じなのに、弟が後を嗣ぐという極めておかしな状態が出来上がったのです。

当然、この2者はバチバチするわけ。この朝廷内の争いを皇統の分裂と言います。それぞれの住処から、後深草の方を持明院統、亀山の方を大覚寺統と言います。【長講堂領・後深草持明院統】vs【八条女院領・亀山大覚寺統】です。

文保の和談

この争いは、後嵯峨が亡くなったあとで交互に天皇を出すという暗黙のルールとして落ち着きました。ただ、基本的に仲はクソ悪い。「早く死ねよ!」みたいなヤジが吹き荒れるのです。

鎌倉幕府は、基本的にはこの天皇の跡継ぎ問題には口を出しません。ただ、承久の乱以降は「天皇が即位するときは一応知らせてね」と言ってあって、時宗のころからは軽い仲裁役にもなっていました。

そして、14代執権北条高時のころの1317年、この争いが激化し、ついに幕府が本格的な仲裁をします。文保の和談(ぶんぽうのわだん)と言いました。ここで皇位継承に関する明確なルールが作られます。

まず、両統迭立(りょうとうてつりつ)と言って、交互に天皇を出すのがきちんと明文化されました。また一人の天皇の任期は10年に決定。こうしてルールが決まった中で、最初の天皇になったのが大覚寺統の後醍醐天皇だったのです。

後醍醐天皇の倒幕計画

幕府にとっては運が悪いことに、この後醍醐天皇はムチャクチャ我が強い人でした。「なんで10年しかできないねん」といってルールを決めた幕府に不満を持ち始めます。そしてもう1つ、朱子学というものにハマっていました。

朱子学とは、元に負けて南の方へ逃げた宋で生まれた政治哲学でした。簡単に言えば、国を治めるものには①徳も無いのに力だけで治める「覇者」と、②徳を持って天下を治める「王者」がおり、後者こそが治めるべきというものです。

もちろんこれは負け犬の遠吠え的な話です。ただ、内容はたしかによくできていて、後醍醐天皇にとってはちょうど現状が「幕府が覇者」で「天皇が王者」という構図に重なったのです。だから幕府を倒すべき存在と思うようになったのでした。

もう1つその思いを強くする状況として、このときの執権である北条高時は、政治に関して本当になんの関心も持っていませんでした。だから実質的な権力は内管領である長崎高資(たかすけ)が握っていました。完全に職務怠慢です。

正中の変

後醍醐天皇の倒幕計画は合計3回行われます。その1回目が1324年の正中の変(しょうちゅうのへん)です。幕府を攻める計画だったんだけど、直前になって幕府に漏れて失敗します。

後醍醐天皇の右腕であった日野資朝(ひのすけとも)が幕府に捕まりました。

このとき、資朝は首謀者が後醍醐だとは吐きませんでした。イケメン。一方、後醍醐の方は「僕は関係ありません」という使者をわざわざ送っています。クソヤローですね。

もちろん、幕府だってそのことは分かっています。ただ、朝廷に武力がない以上、もうこんなことはしないだろうと思い、資朝を佐渡に配流としただけでこの件は終了にしました。

元弘の変

しかし、「(徳もないのに)俺が王者でなければ!」と思い込んでる後醍醐は全然諦めませんでした。ここで考えたのが、前回出てきた「悪党」を使うことでした。幕府に従っていない武士たちをとにかく集めていったのです。

それなりに集まったところで、再び倒幕計画を実施します。1331年、元弘の変(げんこうのへん)といいます。元寇とは漢字が違うから注意ね。ただし、これも密告によって事前にばれ、失敗します。

密告した人は後醍醐の付き人とも呼べる吉田定房(さだふさ)という人。佐渡から戻ってきた日野資朝と、その身内の日野俊基(としもと)は捕まって処刑となりました。

後醍醐も最初は笠置山というところに逃げてたけど、後に捕まって後鳥羽と同じく隠岐に流されます。天皇も持明院統の光厳天皇(こうごん)に交代です。ただし、名和長年(なわながとし)という人の助けを借り、後醍醐はすぐに脱出しました。

鎌倉幕府の滅亡

楠木正成の頑張り

隠岐から戻った後醍醐は、すぐにまた倒幕行動を起こします。さっき笠置山という全然覚える必要のない名前を出したのは、ここで最強の悪党と知り合いになったからです。楠木正成(くすのきまさしげ)と言います。

2人は仲良くなり、正成は河内国赤坂城千早城(ちはやじょう)というところで挙兵します。戦力的には100対1くらいだったにもかかわらず、戦略の天才であった正成はなんとか持ちこたえ続けました。

足利高氏の責任

実は、この持ちこたえるということ自体が正成の戦略でした。100対1でも勝てない幕府に対して、世間じゃ徐々に「幕府ダメじゃね?」という思いを持ち始めます。つまり世の中の空気が変わってくるのです。

その変わったものの1つとして足利高氏(あしかがたかうじ)がいました。後の室町幕府を開く「尊氏」ですが、このときはまだ「高氏」でした。この人、実はこのときの源氏の嫡流、つまり本家なのです。

実朝で源氏が途絶えたあと、源氏一門のトップは平安時代に活躍した源義家の孫に始まる足利氏に移っていました。北条氏側だったのでここまで特に名前が出てきません。ただし血統としては北条氏よりも上というのがみんなの認識でした。

そんな高氏は、世間の空気が変わったのを見て、もはや幕府が武士のための幕府になっていないということを強く感じます。トップを代える必要があると思うのです。そこで形的には後醍醐の綸旨を受ける形で六波羅探題を攻め落としました。

新田義貞によるトドメ

鎌倉幕府は最後、新田義貞(にったよしさだ)によって攻め落とされます。新田氏も源氏一門の家柄、その初代は足利の初代と兄弟関係にありました。高氏が幕府を裏切ったことを鎌倉で聞いた多くの人が、新田義貞とともに戦ったのです。

1333年、鎌倉幕府は滅亡で、これによって鎌倉時代も終わりとなります。最後、足利高氏がキーマンのような説明をしたけれど、幕府を倒した人を1人挙げろと言われたら、やはり後醍醐天皇です。だから次は後醍醐天皇による政治が始まります。

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