鎌倉時代の社会経済②〜地頭の荘園侵略と経済発展の話

鎌倉時代の社会経済、2回目は地頭の荘園侵略という話と、鎌倉時代の経済について話していきます。今回の話は主に西日本のことだと思ってください。鎌倉ではなくて関西の話。結構分かりづらいところだけど、この意識さえあれば余裕です。

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地頭の荘園侵略

鎌倉幕府とは、東国の武士たちがその存在が認められることを強く希望し、源頼朝をみんなで支える形で作り上げた独立国でした。だから東京の人にとって大阪維新の会がどうでもいいように、あくまでも東の人だけの話だったんです。

ただ、それが徐々に西の方にも伸びてきます。承久の乱で関西に支配権を持ち、そして元寇の間に九州までそれを伸ばした話をしてきました。これを違う言い方にすると、鎌倉幕府は徐々に他人の縄張りに足を踏み込んでいったのです。

荘園公領制のところで、荘園には現地責任者として荘官がいることを話しました。忘れた人は必ず復習ね。関東では多くの荘園では、この荘官が源頼朝と主従関係を結び、地頭となりました。ここはとてもいい関係です。

ところが、関西ではもちろん幕府とは関係なく、平安時代の荘園制度がそのまま続いています。寺社や貴族にOKをもらった荘官が変わらず現地を支配しているのです。

承久の乱が終わって、新しく鎌倉幕府よりやってきた新補地頭が、それぞれの荘園にやってきます。関東ではただ単に荘官が地頭という名前に代わっただけなのに対し、関西では荘官と地頭という2人の管理者ができてしまったのです。

もちろん、この両者には対立が起きます。やはり寺社や貴族の力が強いので、入り込めない地頭もたくさんいたけれど、ムリヤリ攻め込んでいった地頭もいました。これが地頭の荘園侵略という話になります。

地頭がグイグイ食い込んでいった荘園がどうなったか。主に2パターンに分かれる形でひとまず解決となりました。地頭請(じとううけ)と下地中分(したじちゅうぶん)と言います。

地頭請は「分かった、管理はお前(=地頭)に任せるよ。その代わり得た利益の数%をよこせよな」って言われたものです。比較的スムーズに話がついたパターンと言えるでしょう。

一方の下地中分は2分割にするというものでした。もともとの持ち主としては、所領が半分になるのはあまりに痛すぎる話。でも残った半分については地頭は一切手出しできません。幕府にとって踏み込めない聖域ができてしまったのです。

下地中分については、話し合いでそうしようってことになったのと、それでは解決しないので幕府が出てきて強制的に行われたものがありました。前者を和与中分(わよ)、後者を強制中分と言います。前者の例として伯耆国東郷荘(ほうきのくにとうごうのしょう)が有名です。

鎌倉時代の経済

続いては鎌倉時代の経済が発達していく様子についてです。さっき「今回は主に西日本の話だよ」と言ったのがここでも関係していきます。

武家政権というのは、御家人に土地の所有を認めることで御家人からの忠誠を集めていました。ときどき番役があったり、何かあれば「いざ鎌倉」で駆けつけるけれど、それ以外は基本的に自分の土地で自給自足の生活を送ります。

一方、関西では必ず荘園から本所に対して税が送り届けられます。本所はだいたいが中央付近にいる人たち。そこでは宋銭なども使って交換が行われます。つまり商売があったのです。

しかも、当時は日宋貿易も盛んでした。だから場合によっては海外まで届けられるものもあったのです。ちなみに、日本と宋には直接の国交はありません。あくまでも平清盛が開いた民間貿易だということは押さえておいてください。

ここまでのことをもとに、鎌倉時代の経済で覚えてほしい6つの言葉について説明します。

三斎市と見世棚

まずは市場の話です。ものがたくさんあると、そこでは市場が開かれます。鎌倉時代では毎月3回、デカい市場が開かれました。これを三斎市(さんさいいち)と言います。決まったペースで開かれるものを定期市というので知っておきましょう。

よく例として挙げられるのが肥前国福岡市。これは市場の名前が福岡なだけで、今の福岡県で開かれたものではないので注意してね。肥前国は今の佐賀県と長崎県にあたるところです。

あと、デカい売買は市場が開かれるときに行われるけれど、お店自体はいつもやっていました。こういった常設店舗のことを見世棚(みせだな)と言います。

問丸と為替

次は問丸(といまる)と為替(かわせ)です。荘園から中央に運ばれ、そこからまたいろいろなところに商品が運ばれる。こういう社会ではクロネコみたいな運送業者が必要です。

鎌倉時代のクロネコのポジションを問丸と言いました。ただ、基本は海運なので、トラックをバンバン走らせてるクロネコとはちょっとイメージが違うかも。

また、家の近くの銀行で預けておけば、わざわざお金を持って行かなくとも出かけた先でお金を下ろすことが当たり前にできます。実はこの制度ができたのが鎌倉時代でした。この遠隔地間の決済システムを為替と言います。

これによって税をわざわざ中央まで持っていかなくても、近場で収められるから楽になったのです。このとき、「ちゃんと払いましたよ」っていう証拠が必要でしょ?これを割符(さいふ)と言いました。お財布じゃないからね。

借上と頼母子

経済に関する用語の最後は借上(かしあげ)と頼母子(たのもし)です。どちらも変な読み方で、特に前者は「借りる」なのに「かし」と読みます。注意してください。

このように商売が発展してくると、その商売を大きくするためにお金を借りるという行為が生まれてきます。つまり銀行からお金を借りるってことだね。銀行のようにお金を貸し、利子で儲けるビジネスを高利貸(こうりがし)と言います。

鎌倉時代はこの高利貸が大きく成長した時代でした。この人たちのことを借上と呼びます。ちなみに、鎌倉時代⑤で話した貧困に陥っていた武士たちはこの借上からお金を借りていました。そして返せないからこの人たちに土地を持っていかれる。徳政令はそれをチャラにしたのです。

また、この借上はある程度お金や土地を持っている人にしか貸してくれません。踏み倒されたら大赤字になるわけだからね。なのでビンボー人には使えないサービスでした。

でも、むしろビンボー人の方が急にどうしてもお金が必要ってことはあるでしょう。家族が倒れて緊急入院みたいなね。まあ、この時代はそんな医学なんてものがそもそも無いわけだけど。

こういう緊急にお金が必要になったときのことを想定して作られたのが頼母子という制度でした。これは村人みんなで毎月いくらと決めて貯めておくもので、ヤバい時は使っていい、でもそのあとは利子付きで返せよという決まりでした。

誰も使わなかったらただ戻ってくるだけだけど、誰かが使ったらその利子がある分たくさん戻ってくるというもの。こういうご近所同士でやるものを庶民金融なんていい方をしたりもします。無尽(むじん)という別名もあります。

悪党の誕生

最後に悪党という人たちの存在を紹介します。商業が発達してくると、そこにあるお金を守るために戦える人が必要でした。簡単に言えばセコムみたいな職業ね。商人が自ら武装したり、西国にいる御家人ではない武士などがこれを担います。

このような人たちを悪党と呼びます。今この言葉を使うと悪人と言ってるような感じになるけれど、この時代は違います。「一般のルールには従わない、強い奴ら」くらいの意味です。

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