弥生時代②〜土器・集落・墓・遺跡の話

今回は弥生時代の後半戦として、稲作と金属器以外の話しをまとめていきます。

弥生時代と言われるとほぼ原始人みたいな印象をなんとなく持ちやすいですが、実際はキリストが生まれる前後300年のこと。そう考えるとそこまで前のこととも思えないのではないでしょうか。

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弥生土器は4種類

まずは弥生時代の土器の話から。縄文時代の土器は時を追うごとに変化していって、最後はいろんなやつができたんですって話をしました。基本的にこれらは全部煮炊き用だったんだけど、弥生時代は用途が増えてきます。

覚えてほしい弥生土器は4つ、(つぼ)・(かめ)・高坏(たかつき)・(にしき)です。壺は貯蔵用で、甕は煮炊き用。高坏は食器で甑は蒸し器の役割をしていました。

弥生土器は縄文土器に比べて高温で焼かれており、色は赤褐色をしています(縄文土器は黒褐色)。1番最初の土器が東京都の弥生町というところで見つかり、それが時代の名前になりました。

行ってみたければ丸ノ内線で中野新橋へ。

少し注意したほうがいいかなと思うのは、用途の区別です。縄文時代では磨製石器のところで用途を話しました。石皿は調理用だよみたいな。でも弥生時代は土器のところで用途を言っています。ごっちゃにしないように。

集落の形成

縄文時代はとても平和な時代でした。稲作をしていた弥生時代に比べて食べ物をとる苦労は大きかったと思うけれど、全てが協力プレイだった分、人間同士の争いが基本的に存在しなかったからです。

ただ、食料が安定してくると、それを作る人と管理する人といったように、ちょっとずつ役割が生まれてきます。そうすると身分の違いっていうのが生まれてしまうんですね。

しかもそれは集落内の話だけじゃない。「あっちの村にたくさんコメがあるぜ」ってなれば、それを奪いに行こうとする頭が働いてきます。こうして弥生時代では戦いが始まりました。

そうなると村自体にも防衛設備が必要です。敵の襲来を見つけやすいように山の山頂や高台の丘陵地などに村を作る高地性集落や、周りに堀を作って村を守ろうとする環濠集落といった形態が誕生します。

こうしてだんだんと自分たちの土地に対する明確な意識を持つようになり、コレがだんだんクニという概念になっていきます。もちろん今の国につながっていくもの。まだまだ未熟なので、弥生時代ではカタカナで表記します。

弥生時代の墓制、要は埋葬法の話

稲作や金属器が伝わったように、弥生時代になるちょい前くらいから中国人がちょっとずつ日本にやってきて、いろいろなものを伝え始めました。その中にはお墓の話もあり、死者の葬り方にも変化がありました。

前期は甕棺墓+支石墓

一番最初の変化は棺に入れることでした。今のように木箱を使う木棺墓や、石で作る箱式石棺墓、棺自体は作らないでスペースだけ土の中に作る土壙墓(どこうぼ)です。

棺についてもう1つ。先ほどの弥生土器のところで話した甕、これをちょっと大きめに作ったのを使うパターンもありました。これを甕棺墓と言います。入試として大事なのはほぼこれだけと言っていいでしょう。

箱に入っていれば出てこれない(はず)なので、弥生時代には屈葬がなくなり、伸ばしたまま埋めるようになります。言葉としては一応これを伸展葬(しんてんそう)と言いました。

また現在のお墓には墓石があるのが普通でしょ?それもできます。ただ、形がちょっと特殊で、丸太みたいな形をした石をつっかえ棒的にし、その上に平ぺったい大きな石を置くというものでした。支える石がある墓、支石墓と言います。

支石墓と甕棺墓(あるいは他のも)は合わせ技ができるものです。支石墓は地面より上の話で、それ以外は地中にどう埋めるかだから。そういう場合は支石墓と言われるのが普通なので覚えておきましょう。

こうしていわゆるお墓みたいなのが出来上がったのが弥生時代前期のことでした。稲作に比べたら必要性が薄いせいか、甕棺墓や支石墓は北九州でしかまだ定着していません。「全国で」はバツなので注意してください。

後期は地域それぞれ

ちょっと気が早いけれど、弥生時代の次の時代は古墳時代になります。簡単に言えば「デキる男は墓にこだわる」時代。次にそれが控えているってことは、弥生時代後半からもう墓にはさまざまな意識が働いています。

ただし、さっき集落のところで言ったように、自分の地域内にいるのが弥生時代。だからよそが何をしているのかという情報があんまり入ってきません。そのため、地域によって全然違うお墓の作り方をしていたりします。

代表的なのが3つ。墳丘墓(瀬戸内)・方形周溝墓(近畿より東)・四隅突出型方墳(山陰)です。名前の通りそれぞれ土をこんもり持ったもの、四角形で周りに溝をほってあるもの、四隅になぜか突起した部分があるものです。

弥生時代の遺跡

最後に遺跡の話をして弥生時代を閉めたいと思います。まず最重要なことが、絶対に時代をまぜちゃいけませんってことです。時代をまぜてくるのが正誤問題の典型パターンなので、この遺跡はこの時代ってのを正確に覚えてください。

弥生時代で大事な遺跡を11個挙げます。ちょっと多いので、きちんとレベルを分けて覚えましょう。また、どんな特徴があるのかによって3つに分かれます。【水田跡】【集落】【青銅器発見】です。

水田跡の遺跡

稲作をやってたことが分かる遺跡としては4つ、板付遺跡(福岡)・菜畑遺跡(佐賀)・砂沢遺跡(青森:前)・登呂遺跡(静岡:後)を覚える必要があります。前2つは縄文時代後期の遺跡としても登場しました。

砂沢遺跡は弥生時代前期のもので、西から入ってきた稲作技術が、前期の間にすでに本州最北端まで伝わったことを示しています。青森では他に弥生時代のちょうど真ん中頃の遺跡として垂柳遺跡(たれやなぎ)も見つかっています。

最後の登呂遺跡は戦後直後に発掘されたもので、弥生時代の研究が本格化したきっかけの遺跡です。吉野ヶ里遺跡が見つかって影が薄くなったけど、その前は修学旅行先として超メジャーな場所でした。

集落跡

環濠集落の跡をきれいに残しているのが吉野ヶ里遺跡(佐賀)と唐古・鍵遺跡(奈良)、そして大塚遺跡(神奈川)の3つ、そして高地性集落の跡を残しているのが紫雲出山遺跡(香川)です。

吉野ヶ里遺跡は超有名な遺跡で、ミュージアム的にきれいに残されています。墳丘墓や甕棺墓が出てきたところとしても有名です。

唐古・鍵遺跡(からこ・かぎ)はもともと2つ別々の遺跡だけど、近場なのでセットで扱われます。こちらからは水田跡も出てきました。だから一応こっちに分類したけれど、水田跡の話で出てくることもあるので注意してください。

大塚遺跡はちょっとマイナーです。最後の紫雲出山遺跡は「しうでやま」と読みます。高地性集落といったらコレってものだけど、高地性集落自体は瀬戸内海沿岸によく見られる特徴を持っていました。

青銅器の発見

最後、青銅器がたくさん出土したところとして2つ、荒神谷遺跡(こうじんだに)と加茂岩倉遺跡(かもいわくら)を覚えておいてください。荒神谷遺跡では、358本の銅剣、6個の銅鐸、16本の銅矛が出土しています。

以上で弥生時代の話はおしまいです。本当はまだまだたくさんこの時代に関する話はあります。たとえば卑弥呼。この超有名人がいたのはこの弥生時代のころでした。でも、ひとまずここでは扱いません。

それは考古学的な話と歴史学的な話は分けて話したほうが、説明も速いし印象も強まると思うからです。

稲作が始まりました!とか、土器作ってます!って話はいかにも超大昔に感じるけど、卑弥呼って人がいてねって感じで人が出てくると、なんだか一気に身近になってくる。

たぶん、この2つは分けた方がそれぞれが分かりやすいと思うのです。なんで次の古墳時代までは基本的に分けて語っていきます。

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