大和政権の政治〜継体・欽明・敏達・用明天皇の時代

6世紀、古墳時代後期の政治について話します。流れとしては弥生・古墳時代の政治の続きにあたるけれど、そのときも言ったように今回の範囲から日本の歴史書に情報がある時代です。

外国の本に載ってるだけなのではなくて、日本人が自分で書き残している。これは情報量が全く違うと想像できるはず。これまでよりも圧倒的にたくさんのことが圧倒的に細かく残っている。

当然、大学受験の日本史としてもここからいろいろな話が登場するわけ。だからこの回が何について話すのかを分かりやすくするために、最初に主な出来事を年号順に並べて書いてしまい、後から1つずつ話す形式にします。

またその際、基本的には天皇ごとに区切って話をしていきます。というのも、ここから鎌倉時代が始まるまでは「○○天皇のときに□□が起こった」の形で理解・整理していくのが本当に大事だから。順番も正確に覚えてください。

ここらへんで改めて日本史の勉強法を確認してほしいと思います。

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古墳時代後期の主な出来事

〈512〉大連大伴金村任那4県を百済に割譲
527筑紫国造磐井の乱
〈540〉大伴金村失脚
〈562〉任那日本府滅亡
儒教伝来
仏教公伝→崇仏論争→蘇我氏勝利

継体天皇

今、流れとしては宋書倭国伝の話で終わっています。倭の五王が安東大将軍をねってやつ。そのあと3人ほど受験的にはどうでもいい天皇がつづき、武烈天皇(ぶれつ)が即位します。この人に関しても何もありません。

無さ過ぎて子どももいませんでした。

そこで、越前国(今の福井県あたり)にいた親戚の人を天皇としてひっぱってきます。あくまでも血のつながった一族じゃなきゃいけませんから。それが継体天皇(けいたい)です。507年のことでした。

任那割譲→儒教伝来

継体天皇の時代に起きた事件は2つ。 まず、当時の参謀、今で言う官房長官を大伴金村(かなむら)という人が務めていました。そこに朝鮮半島の百済から「日本が持ってる半島南部の地域をちょっとくれ、たのむ!」という話が来ます。

過去に安東大将軍の称号をもらっていた日本は、この時期も朝鮮半島の南端に支配地を持っていました。その隣の国が百済。百済だけ支配が認められなかった話は覚えているかな?

当時の朝鮮半島では高句麗(こうくり)・新羅(しらぎ)・百済の3つの国で争っており、けっこう百済はボコボコにされていたのです。補給が必要でした。

金村は「いいよ!(ただしその恩を忘れんなよ!)」と返事をします。その南部地域を任那(みまな)といい、あげた範囲が4県分です。ちなみに翌年もう2県あげています。

百済はすぐに見返りの1つとして儒教の先生たちを送ってきました。これを五経博士と言います。儒教は5つの経典に分かれていたのでこう呼びます。正式な年号までは分からないけれど、これが儒教伝来です。

儒教については江戸時代の学問のところで少し詳しく話すので、今は全く気にしなくてOK。五経博士の一人、段楊爾(だんように)は知っていてもいいでしょう。史料上で分かっている最初の人です。

筑紫国造磐井の乱

継体朝のもう1つの事件が527年の筑紫国造磐井の乱(つくしのくにのみやつこ・いわい)です。国造という肩書を覚えてますか?今で言う県知事にあたる人でした。前回の大和政権の仕組みでやりました。

百済はちょっと土地をあげたくらいでは、その劣勢を変えることができませんでした。だから日本は軍隊を派遣して助けようとします。百済の勝利が日本の最大の利益だから。

ところがそこで予期せぬハプニングが起こるのです。それは、近江毛野(おうみのけぬ)を将軍に日本軍が朝鮮に渡ろうとした際、九州は筑紫国のトップだった磐井という奴が通せんぼをしてきたのです。新羅から賄賂をもらっていました。

この事件は朝鮮到着が遅れるの以上に、服属していたはずの奴が反乱を起こしたことで大和政権は超ショックを受けました。そして金村とともに大連だった物部麁鹿火(もののべのあらかい)を将軍にし、この反乱を潰します。

この磐井の墓が福岡県八女市(やめ)にある岩戸山古墳です。八女市はお茶とみかんが有名なところで、ホリエモンの出身地でもあります。この古墳からは埴輪ではなく、石で形作られた馬などが見つかりました。珍しい。

欽明天皇

継体天皇の次は欽明天皇です。ただここはちょっと複雑で、欽明天皇と同時に安閑宣化天皇(あんかん&せんか)という2人も順番に天皇と言い張ってました。むしろこの2人は兄。長男&次男vs三男の喧嘩でした。

真相はよく分かってないので、継体→欽明でOKです。

この欽明天皇から、日本史には権力争いというドラマが加わります。やっぱり、ただ歴史を淡々と紹介されるより、ドロドロで、いかにも人間臭い話の方が面白い。少なくとも僕はそうで、だから教科書が好きじゃなかった話もしました。

継体天皇の末期、権力を持つ人が3人いました。大伴金村(大連)・物部麁鹿火(大連)・蘇我稲目(大臣)です。腹心・反乱鎮圧のヒーロー・ただ臣のトップといった位置づけで、順位もこの順番だったはずです。

大伴金村の失脚&任那日本府滅亡

まずは2位と3位が手を組み、大伴氏を蹴落としました。540年に百済にあげた土地が結局敵の手に落ちると、その責任追及を始めます。「本当は何の勝機もないのに、金村のヤローが金をもらったから渡したんだ」と告発するのです。

たぶん大伴金村は日本のアジア戦略を考えてやったことなのに、それを賄賂をもらっていたと言うのです。今で言えば大物政治家の収賄事件として特捜が動く話。もう取られてしまったのは事実なので、金村は何も言えずに失脚します。

そして実際に562年、任那にあった日本の出張所、アンテナショップも新羅によって木っ端微塵にされました。任那日本府滅亡と言います。

仏教公伝

蘇我vs物部の決勝戦は話題を変えて仏教の話で行われます。金村の場合と違って、この2者には特に相手を蹴落とす話題を持っていませんでした。そんなときに仏教が日本に伝えられるというビッグイベントが起こります。

お盆とか葬式とか除夜の鐘とか、今の日本にも当たり前に存在する仏教。これがこの時期に、百済の聖明王(せいめいおう)が欽明天皇に紹介する形で入ってきます。仏教公伝です。

いよいよ滅亡フラグが立ってきた百済が、仏教という国を治める上で超便利なものを教えてあげることで、日本のさらなる支援を引き出そうとしたもの。具体的な年号は538年と552年の2つの説があってまだ確定はしていません。

儒教は「伝来」なのに、こちらは「公伝」と表現されるのは、これよりも先に渡来人が自分で仏教を持ち込んでいたので、伝来と言うとちょっと微妙な感じになるから。国家間で公式に伝わったのがこの時期ですよってことで使われます。

崇仏論争

「国を治めるのにメッチャ使えるから」と言って入ってきた仏教。ただ、いきなり入ってきた他所のものが本当に使えるか分かりません。ここで「コレいいね!」と考えた蘇我氏と、「うまくいかん!」と考えた物部氏が分かれます。

この言い争いのことを崇仏論争(すうぶつろんそう)といい、蘇我氏は蘇我稲目(いなめ)と、物部氏は麁鹿火の息子の物部尾輿(おこし)が争いました。

ただ、この2人の間では決着がつかず、勝負が決まるのは2人の息子の代になります。蘇我氏が崇仏派、物部氏が廃仏派と言います。

敏達天皇

蘇我vs物部が代交代する間に、天皇の方も代交代が行われます。敏達天皇(びたつ)です。この人は女帝1号の推古天皇の旦那です(2人ともパパは欽明天皇)。ただ、天皇になって早々に病死します。したがって、残念ですが以上。

何も無いので、蘇我氏がどんな仕事をしていたかについて触れようか。蘇我氏は三蔵(みつのくら)の管理が仕事でした。斎蔵(いみくら)・内蔵(うちつくら)・大蔵(おおくら)の3つの総称で、天皇家の倉庫くらいの理解でいいと思います。

用明天皇

そして次が用明天皇。この天皇も息子の聖徳太子を作ること以外は特に何かすることもなくこの世を去ります。ただ、この時代の587年に蘇我馬子が物部守屋を倒します。

これによって仏教は今後積極的に活用するという方針が決まり、そして何よりも重要なのは、蘇我氏が絶対的な権力を手に入れたことです。これを忘れてはいけません。蘇我氏が地位を固めたとき、ここから飛鳥時代が始まります。

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