飛鳥時代①〜聖徳太子中心に崇峻・推古・舒明天皇の話

飛鳥時代に入ります。この時代は①聖徳太子②中大兄皇子③天武天皇④持統天皇という4人のキーパーソンがいます。この人たちがやったことをきちんと抑えれば絶対に大丈夫。まずは聖徳太子の話から。

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飛鳥時代初期の主な出来事

〈592〉崇峻天皇暗殺by東漢値駒
603冠位十二階制定
604憲法十七条制定
607遣隋使派遣
〈620〉天皇記国記の編纂
630〉最初の遣唐使派遣

崇峻天皇

まずは崇峻天皇(すしゅん)、飛鳥時代最初の天皇です。この人はホントにかわいそうで、歴代天皇の中で唯一暗殺されてしまいます。592年のことでした。だから覚えることは特にありません。

強いて挙げるなら暗殺犯の東漢値駒。「やまとのあやのあたえのこま」と読みます。聖徳太子の奥さんの家庭教師だった人。この奥さんは蘇我馬子の娘でもあるので、今では馬子が指示したと言われています。

推古天皇

そこで登場するのが推古天皇。本名を炊屋姫(かしきやひめ)という、日本初の女性天皇です。今で言えばヒラリー・クリントンになる。。。のかな?(2016年11月9日追記:ならなかった!笑)

推古天皇は甥の聖徳太子を摂政に、蘇我馬子を大臣にして3人で政治を行いました。聖徳太子は本名の厩戸皇子(うまやど)を、馬子はお墓である石舞台古墳(いしぶだい)を覚えておきましょう。

難関校志望者はこの人たちがいた場所を覚えてください。豊浦宮(とゆらのみや)と小墾田宮(おはりだのみや)の2ヶ所です。政治を行ったところ、首相官邸的な場所です。2ヶ所なのは途中で引っ越したからよ。

なぜ女帝が誕生したのか

推古天皇の話をする前に、そもそもなんで女性が天皇になったんだろって話をしてます。「初!」とか「最初の!」って言われるとなんかカッコいいけど、第1号が生まれるには、やっぱりそれなりの理由があったはずなんです。

崇峻天皇が殺されたとき、実は天皇の候補者は2人いました。崇峻天皇には子どもがいなかったので、一番上の兄貴(=敏達)と推古の子である竹田くんと、2番目の兄貴(=用明)の子の聖徳太子くんです。

このとき竹田くんは幼稚園児、一方の聖徳太子くんは19歳。幼稚園児は能力が完全に未知数だけど、聖徳太子は超優秀な大学生。しかも蘇我vs物部の争いに参加するくらい、武闘派でもありました。

ここまで聞いたら、聖徳太子の方が天皇にふさわしいと思うでしょ?でも実際に天皇になったのは、負けそうな方、しかも本人ではなくそのママなんです。推古はいったい何をしたんだ!

当時未亡人となっていた推古は超権力者の馬子と愛人関係になっていました。彼氏が強いとやっぱり気も大きくなるんですね。どうしても息子を天皇にしたいと思い、大きくなるまでのつなぎとして自分が天皇になるのを強行したのです。

そして聖徳太子を蹴落とした方法がエグい。なんと東漢値駒に指示して崇峻を殺した犯人だと告発するのです。たしかに、崇峻が早く死んだら、それだけ早く天皇になれます。

犯人を探すときは、まずは被害者が消えて一番得をするやつを疑えが鉄則です。このときはそれが明らかに聖徳太子だったので、みんな納得しちゃったのです。

聖徳太子を摂政にして仲良くやったんじゃないの?と思うかもしれないけど、実際、聖徳太子は心的障害を患って10年ちかく使い物にならなくなります。簡単に言えばうつ病ですよ。

聖徳太子が活躍するのは、推古天皇が誕生してしばらく経ってからのことなのです。崇峻暗殺から冠位十二階制定まで11年あるでしょ。そこらへんの話はまた文化史で話すことにして、ここからは返ってきた聖徳太子の話です。

聖徳太子がやった4つのこと

やってもないのに天皇殺しの罪で世間から大バッシングを受けた聖徳太子は、正気を取り戻すのに8年かかります。しかし、何も悪いことをしていない彼に天は見方をしました。

元気が出てきたまさにそのころ、推古の息子である竹田皇子が結婚もしないまま亡くなるのです。

大事な一人息子が亡くなっては、推古は自分が天皇になった意味がありません。やる気ゼロになり、もう元気いっぱいの聖徳太子に全てを任せてしまいます。

摂政とは天皇を補佐する立場で、聖徳太子が日本初の摂政にあたります。最初はもちろんただ名前だけの摂政だったはずだけど、このようにして天皇の代わりくらいの力を手に入れました。そして聖徳太子は4つのことを行います。

冠位十二階

1つ目が603年に作った冠位十二階です。これは能力のあるものがきちんと評価されるシステムのこと。これまで軍事は物部氏が、お金の話は蘇我氏がといったように、個人の能力ではなく家柄(=氏)で判断されていました。

でもパパが頭良いからといって息子も頭がいいとは限りません。家とか関係なくデキる奴を使うべきだろと思って、政治に関わりそうな人を能力によって12段階に格付けをしたんです。

12段階というのはの6つにそれぞれ大小をつけたもの。一番すごいのが大徳で次が小徳です。「とくじんれいしんぎち」を早口で繰り返そう。 何回も言うけれど、頭より口で、身体で覚えた方がいいよ。

憲法十七条

次が翌年の604年に作った憲法十七条です。これは日本国憲法などとは違って、役人の心構えを説いたもの。文化史で話しますが、聖徳太子は非常に仏教を信仰していました。だから仏教をみんな信じようぜ!という内容が入っています。

ただし、さすがなのは日本人の特性をちゃんと理解し、それを最も尊重すべきだと言っていること。「争わずに話し合いで解決しよう!」というのが一条です。それからあとは天皇が中心だよ!ってことも言ってます。

遣隋使の派遣

3つ目は遣隋使の派遣。大和政権の成立で述べたように、4世紀以降、中国は混乱します。ところが崇峻天皇の頃に隋(ずい)が中国を統一する。だから連絡をしました。覚えなきゃいけない遣隋使は4回。600・607・608・614年です。

最初の遣隋使

最初は600年のこと。政界復帰した聖徳太子がさっそく外交を行います。ただ、さすがに何も知らずに行ったため、簡単に追い返されてしまいます。日本にとって恥ずかしいことだからか、日本の歴史書にはこの存在が一切載ってません。

第1回遣隋使

次の607年、日本の歴史書に載った第1回です。よく勉強をした上で、安倍さんもビックリの超強気な外交を行います。派遣されたのが小野妹子。「ハロー皇帝さん、日本の聖徳太子だよ!」っていう完全に対等な感じの手紙を出しました。

中国は「俺らが世界の中心。お付き合いしたかったらまず子分になれ」という考え方を持っています。いわゆる中華思想というもので、今でもよく言われるもの。隋の皇帝煬帝(ようだい)は当然のようにブチ切れました。

ただ、このとき隋は朝鮮と戦争をしていました。しかもかなりの苦戦中。そんなときにもし雑に扱って日本が朝鮮の味方になってしまったら困るわけです。仕方がないので一応のお返事を出します。

返信というのは、ただ手紙を妹子に渡せばいいだけではありません。妹子という使者が来たように、中国人の使者が持って行くのです。この人の名前を裴世清(はいせいせい)と言います。聖徳太子に渡して翌年帰りました。

お返しのお返し

小野妹子が行き、裴世清が来る。この往復が実現したことによって、正式に隋との交流が成立をしました。さっそくすぐに隋からいろいろ学ぼうと、聖徳太子は留学生を送ります。608年の遣隋使です。

それが高向玄理(たかむこのくろまど)・(みん)・南淵請安(みなみぶちしょうあん)の3人です。このときも小野妹子は行ってることに注意。玄理は政治家、他2人は僧です。

最後の遣隋使

614年に犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)が最後の遣隋使として派遣されました。別に最後と決めて行ったわけじゃないけど、さっき出てきた煬帝がバカすぎて隋の方が618年に滅んじゃったんです。だから自動的に最後となりました。

天皇記・国記の編纂

聖徳太子は冠位十二階によって政治システムを見直しし、憲法十七条によって基本ルールを定め、そして遣隋使の派遣によって外交を整備しました。そして最後にこれまでに起こった日本の出来事や行事をまとめた歴史書を作りました。

この歴史書を天皇記国記と言います。ただ現存しないので何が書いてあったかは全く分かりません。 注意点は、この編集には馬子も関わっていること。これまで影が薄い説明しかしなかったけど、超権力者なのは間違いありません。

馬子が行ったことにもやっぱり触れておこうね。新羅征討軍の派遣があります。日本が百済に任那という地域の一部をあげた話をしました。その百済が新羅に破れ、任那の残った地域もヤバくなったので、新羅を潰しに行ったのです。

これが計画されたのは600・602・623年の3回。ただし602年の回は将軍(聖徳太子の弟)が日本を出発する直前で病死して無くなります。あとの2回も結果的には失敗するので、そんなに大きなこととしては扱われませんでした。

舒明天皇

最後の遣隋使、犬上御田鍬の話をしたので、もう1人舒明天皇の話までします。隋が滅びて次に唐という国が生まれ、引き続きそこにも使者・留学生を送りました。名前は当然、遣唐使。初回が630年です。

誰が行くかという話ですが、最初はやっぱり経験者を送っておくのが無難だよね。ということで御田鍬は最初の遣唐使にも選ばれています。舒明天皇はすぐ死んでしまったので、覚えるのはこれだけです。

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