飛鳥時代⑤〜藤原不比等登場、持統・文武天皇の話

飛鳥時代のラスト、持統・文武天皇の話です。天武の次は奥さんの持統が天皇になります。その意味では舒明→皇極と同じ形。でも、女性が天皇になるにはやはり何かしらの理由があるもので、持統のそれは皇極とはだいぶ違いました。

一言で言えば「クソ必死」。

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持統・文武朝の主な出来事

〈689〉飛鳥浄御原宮令施行
〈690〉庚寅年籍作成
694藤原京
701大宝律令制定

称制→持統天皇

天武が亡くなると、持統は自分が次の天皇になるために奔走します。その期間が結構長くて、結局その間は天皇がいない状況でした。称制だよね、天智天皇のときに出てきました。では、持統はなぜ奔走していたのか。

持統が天皇になった理由

前回、天武天皇は本当は天智の弟ではなく、そもそも天皇家の人間じゃない説を話しました。「万世一系」という言葉を聞いたことがあるでしょうか?天皇家は初代からずっと血がつながっていることを表現する言葉です。

あれ、天武天皇は他人、万世一系じゃなくね?って話だよね。それを守ったのが持統天皇でした。というのも、持統は天智の娘なんです。自分に流れている本物の天皇の血を守る、それが持統の戦いでした。

持統には草壁皇子という息子がいました。しかもきちんと皇太子に指名されていたので、最初のうちは天皇家の血が途切れるみたいな心配は全くしてなかった。ただ、天皇になる前になんと病死してしまったのです。持統クソ焦る。

持統にも悪いところがあります。天武の奥さんには、持統の他にも天智の娘がいました。そしてそこに大津皇子という息子がいたんです。天智の血をつなげるだけならこの人でもよかったはず。しかもこっちのほうがずっと優秀でした。

でも、そこはママとしての想いが出てしまうんです。つまり自分の子を天皇にしたいという欲。そこで大津皇子に謀反の疑いをかけて自殺させてしまっていました。そこにきて草壁皇子の死。一気に天皇家断絶の危機に陥ったのです。

唯一の希望として、草壁には息子がいました。持統にとっては孫。でもまだ7歳で、ちょっと天皇になるには幼すぎました。この子が大きくなるまで、私がつなげるしかないといって、即位をしたのです。

藤原不比等登場

天皇になろうとした持統。でも見方になってくれる人は誰もいません。政権を取って維持するためには、手伝ってくれる強い人が必要でした。

それを見抜き、1番最初に近づいたのが藤原不比等(ふひと)です。亡くなるときに藤原の姓をもらった、中臣鎌足の息子です。

不比等は持統の弱みにつけ込みます。「持統様、藤原一族が全力であたなを支援します!た・だ・し、天皇の奥さんには必ず藤原氏の女を選ぶって約束してください(ニコ)」と迫るのです。

少し躊躇したものの、持統はこのオファーを受けるしかありません。不比等にそっぽ向かれたら、天皇家断絶が避けられなくなってしまうからです。こうして藤原氏は絶対的な力を手に入れたのです。

その証拠が694年に作られた藤原京です。日本で最初に作られた、1つの街を形成するくらい大きな都。それに「藤原」っていう名前がつくくらい、藤原氏の力が強くなっていたんだと思います。

藤原京の説明をちょっと加えます。これは中国の都である長安を真似て作られました。何を真似たかと言うと、さっき言ったように街を形成するという部分。これを都城制といいます。

場所は飛鳥の北の方にあって、畝傍山(うねびやま)・耳成山(みみなりやま)・天香具山(あまのかぐやま)という3つの山(通称:大和三山)に囲まれていました。

持統朝の出来事

では、藤原京造営以外の持統朝の出来事をまとめます。2つだけです。1つは天武朝で作られた飛鳥浄御原宮令、こいつが施行されました。天武のときは「制定」で、今回は「施行」です。

この2つは違うもの。2014年4月、消費税が8%になりました。このように実際に変化が起こるのが「施行」です。それに対して、結構前に「来年4月から8%にあげます」って言われてたはず。それが制定です。この区別は頻出。

持統朝、もう1つの話が庚寅年籍(こういんねんじゃく)の作成です。天智が近江令に基いて庚午年籍を作りました。その令が飛鳥浄御原宮令に変わったので、戸籍も作り直したのです。

ただし、血迷った天智が即効で作った近江令と違い、飛鳥浄御原宮令はある程度律令制度がきちんと定められていました。だから庚寅年籍は最初の律令に基づく戸籍と表現されます。

文武天皇

天武と持統の孫、文武天皇が即位します。この人がやったことはたった1つ。701年、大宝律令の制定です。飛鳥浄御原宮令の改訂版という感じだけど、律令制度がかなり完璧に決めれたものとなっていました。

詳しい内容は次回にして、作った中心人物を2人、藤原不比等刑部親王(おさかべ・天武の子)を覚えてください。701年が制定、施行は翌年です。以上で飛鳥時代の流れはおしまいです。律令制度をはさんで奈良へと進みます。

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