奈良時代③〜孝謙・淳仁天皇と藤原仲麻呂の暴走の話

奈良時代の3回目、孝謙天皇と淳仁天皇の話をしていきます。この時代は覚えることも少ないので、流れをぶった斬ってさっさと終わらせてしまう場合が多いところ。でもガッツリ話していきますよ。

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孝謙・淳仁朝の主な出来事

〈752〉東大寺大仏開眼供養会
〈754〉鑑真来日
〈756〉聖武上皇、没
757〉養老律令施行
〈757〉橘奈良麻呂の乱
〈759〉新羅征討計画(実現せず)
〈760〉光明皇太后、没
〈764〉恵美押勝の乱

藤原仲麻呂とは

奈良時代、4人目の天皇は孝謙天皇(こうけん)です。聖武天皇は自分と光明子の間にできた女の子に譲位をしました。6人目、そして7代目の女帝です。ちなみにこの人はあとで重祚するので8代目の女帝でもあります。

この孝謙天皇は日本史の中でもかなりかわいそうな人の1人でした。その理由は徐々に出てくるけれど、1つには男兄弟ができず、若いときに皇太子に指名されてしまったことです。

その結果、身分が高くなりすぎて生涯彼氏を作ることが許されませんでした。つり合う男子がいないのです。もう完全にやる気がありません。

政治は全て右腕の藤原仲麻呂に任せてしまいました。武智麻呂の子。だから南家だね。この人の肩書を押さえましょう。紫微中台(しびちゅうだい)という皇后のお世話をするところの長官でした。

この紫微中台は令外の官で、皇后だった光明子が作らせたものでした。なぜ作らせたのか。これは表向きは皇后のお世話係ですが、実際は光明氏が天皇から権力を奪って藤原氏を強くしようとして作ったものでした。

というのも、光明子の唯一の子である孝謙天皇は女帝であるために結婚することが許されません。そうなると、その次の天皇は光明子とはほとんど関係ない人がなることがほぼ決まった状況なのです。

事実、聖武上皇はさすがに藤原氏とゆかりのある人を続けることはできないと判断し、自分と藤原氏ではない女性との間に生まれた男子を皇太子として指名していました。この状況を光明子は許せなかったのです。

そこで自分のお世話係という名目の機関を作り、兄の子をその長官として登用します。そして聖武上皇が亡くなるやいなや、仲麻呂にその皇太子から身分を取り上げさせ、代わりに仲麻呂の言いなりになる王子を皇太子にさせます。

なぜそんなことができたのかまでは、ちょっと分からないんだけど。この皇太子が次の天皇になり、藤原氏の女性との間に男子ができれば、再び藤原氏の権力を復活させることができる。これが光明子の狙いでした。

孝謙天皇

では、前置きが長くなったけれど孝謙天皇の時代の出来事について整理をしていきます。まず、聖武天皇のときに作ることが宣言された東大寺の大仏、これが完成します。完成式典のことを大仏開眼供養会と言いました。

そのあと唐から鑑真というクソ偉い僧が日本にやってきます。日本人にちゃんとした仏教を教えに来てくれたのです。お寺や姿像の話があるので、詳しくは文化史に回します。聖武上皇は死ぬ前にこの鑑真から授戒を受けました。

授戒とは、仏門に入る際に守らなきゃいけないルールを戒律といい、「戒律を理解したね、OK、入っていいよ!」っていう許可を受けたこと意味するものです。いろんな祟りに生涯ビビっていた聖武上皇はこれに安心し、安らかに亡くなります。

すでに述べたように、この聖武上皇の死から仲麻呂がキャラを出し始めました。まずは757年に藤原氏作成の養老律令を施行させます。不比等が作ったこの律令は制定されただけでまだ使われていませんでした。

ここ注意ね。養老律令が実際に使われ始めたのは、この孝謙天皇の時期です。

橘奈良麻呂の乱

ここで歴史の原則を1つ挙げてみようと思います。有間皇子の変藤原広嗣の乱の共通点が分かるでしょうか。そもそもこれらの事件が何だったか分からない人は復習してね。特に後者はAランクの事件なので絶対です。

この2つの共通点は、パパが偉い人で、次は自分にその権力が回ってくると思っていたら他の人に取られてキレたということです。このように、権力が他所に移るときはほとんどの場合にこういった嫉妬による反乱が起きます。

ここでも同じでした。藤原仲麻呂がエラそうに振る舞う前は橘諸兄が右腕だった。だけど、それが仲麻呂に移ってしまった。そこで諸兄の息子が反乱を起こします。橘奈良麻呂の乱、養老律令施行と同じ年になります。

原則にさらに内容を追加するとしたら、これらの人は能力がないことです。奈良麻呂もあっさり敗れ、仲麻呂の権力が一気に上がりました。

淳仁天皇

仲麻呂の権力が強大になると、いよいよ孝謙天皇は「もうあんたの好きにしなよ」と言って仲麻呂お気に入りの皇太子に譲位します。淳仁天皇、天武の孫(パパは舎人親王)だけれど持統天皇の血を引かない、つまり天智の血を引かない天皇です。

この頃から仲麻呂は中国かぶれとなっていきます。というのも仲麻呂はもともと次男で、一家を背負う政治家になるつもりはありませんでした。将来は学者になろうと思ってたくさんの本を読んで勉強をしていたのです。

この時代の勉強とは、ほぼ中国の最先端知識を学ぶことです。だから政治家としていろいろな権限を持ったとき、より中国を意識したものにしようとしたのです。

そこでまず、官職の名前を全て中国っぽいものに変えてしまいます。そして自分は恵美押勝(えみのおしかつ)の名前と、太政大臣から名前が代わった太師(たいし)という官職を賜ります。全て天皇にそうさせたのです。

さらに大きな権力を手に入れて浮かれている仲麻呂は、次第に中国の皇帝という存在に強く憧れを持ちます。そして自分も皇帝になれるんじゃないかと勘違いをしていくのです。

この勘違いをしたのには、このとき中国がバラバラになっていたという理由もありました。楊貴妃(ようきひ)という人を知っているかな?クレオパトラ、ヘレネと合わせて世界三代美女の一人です。

以前、GUの宣伝で波留さんがやっている役ね。

当時の中国皇帝がこの楊貴妃にべた惚れし、その結果政治がおろそかに、そして安禄山の乱(あんろくざん)という反乱が起こって首都長安が陥落する事態になっていました。

仲麻呂はこの隙に新羅をやっつけてしまおう計画を立てます。やっつけて日本に朝貢させる。朝貢する国があれば日本も立派に中国と肩を並べる国だと主張することができるというわけです。あくまでも仲麻呂の理屈。

ただしそんなことをしてしまったら、当たり前だけど混乱を収めたあとの中国が黙っているはずがありません。天智天皇の白村江の戦いと同じように国が滅びる危機に陥ります。そんなことを認めるわけにいかないのです。

結果として大勢の反対にあい、この新羅を攻める計画は失敗に終わります。そしてこの直後、仲麻呂の最大の後ろ盾であった光明子、そのときは上皇の奥さんという意味で皇太后と呼ばれるけど、この人が亡くなってしまいました。

ここから、仲麻呂の権力は一気に落ちていきます。仲麻呂じゃダメだ!と盛んに言っていた人に道鏡という僧がいました。この人が孝謙上皇に対して「このままじゃ国がヤバい。もう1度戻ってきてください」と言います。

孝謙上皇はこれに納得し、道鏡とともにクーデターを起こしました。それが764年、恵美押勝の乱です。恵美押勝&淳仁天皇コンビは敗れ、仲麻呂は近江で敗死、淳仁天皇は淡路に配流となります。そこから淡路廃帝とも呼ばれます。

このとき、何故孝謙上皇はやる気を取り戻したのか。それは称徳天皇の話として次回に回します。孝謙・淳仁天皇の話はここまでです。

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