奈良・平安時代の外交〜遣唐使・新羅使・渤海使の話

奈良時代の外交についてまとめます。この時代は3つの国とつながりがありました。そしてその関係は平安時代も変わらないので、少しフライングにもなるけれど、奈良・平安時代の外交としてまとめます。

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遣唐使

まずは遣唐使、日本から唐に行った人たちです。飛鳥時代の630年に犬上御田鍬が行ったのを最初に、平安時代の838年まで、合計15回の遣唐使が派遣されました。200年で15回って意外と少ないよね。

4隻の船に分乗することが多かったので、遣唐使船を愛称として「4つのふね」と呼んだりもするんだけど、この遣唐使について覚えてほしいことは2つ。帰れなかった2人と、航路です。

帰国できなかった2人

まずは帰ってこれなかった人です。そもそも遣唐使ってどんな人が行ってたのか。行った人で日本史で覚えておかなきゃいけない人をまずはひたすら挙げてみます。

犬上御田鍬道昭高向玄理山上憶良阿倍仲麻呂吉備真備玄昉藤原清河石上宅嗣最澄空海橘逸勢小野篁円仁。Cランクまで入れればこのくらいです。

その中で今回覚えてほしいのは2人、阿倍仲麻呂藤原清河です。どっちも唐の玄宗皇帝にメチャクチャ気に入られてしまい、予定が狂って帰ることができなかった。そしてそのまま仕えているうちに唐で亡くなってしまったのです。

この2人、どちらも唐では「アベノナカマロ」などと呼ばれていたわけではありませんでした。もちろんアメリカンな感じで「ナカマロアベ」だったはずもない。中国風の名前をつけられていました。

仲麻呂の唐名が朝衡(ちょうこう)、藤原清河(きよかわ)の唐名が河清(かせい)です。仲麻呂はいいとして、清河の方はお気付きのとおり名前を逆にしただけの安直な付け方でした。

遣唐使の航路

続いては航路です。当時は船もしょぼければ、航海術もきちんとしていません。今なら大阪ー上海はフェリーで48時間だけど、当時は平均7、8日かかりました。しかもちょっと天候が崩れたらすぐに転覆。

そんな危険な旅だったけれど、それでも少しずつ船の強度や航海術が発達し、危険な、でも早い行き方っていうのができるようになります。これが3段階あったのです。北路南島路南路の3つ。

北路は九州→対馬→朝鮮半島というように、細かく休憩をとっていくルートです。対馬はもちろん日本だし、天気がいい日は陸地が見えるくらい韓国とも近い。「よし、気合いれていくぞ!」って思える距離感でした。

続いての南島路、これは一度南に向かっていき、あとから海流に乗って北上するもの。沖縄とか尖閣諸島を始めとする南西諸島と呼ばれるところで休憩を取りながらわたりました。

最後の南路。これはもう簡単です。距離を最優先として直線でいくルートです。

新羅使

続いては新羅使です。日本から新羅に行った人を遣新羅使、新羅から日本にきた人を新羅使と言いました。ゴチャゴチャになりそうだけど、遣唐使が日本から唐に行ったことを考えれば大丈夫かな。

壬申の乱を経て天皇になった天武天皇が新羅と仲良くしたことを話しました。その少し前の668年〜923年まで来ています。新羅じたいは676年に朝鮮半島を統一しています。とにかく、名前だけ覚えておけば大丈夫な新羅使です。

渤海使

最後は渤海使です。「ぼっかいし」と読みます。これも日本から行った人は遣渤海使。渤海というのは、朝鮮半島の付け根から右上の部分くらいにあった国。2国から侵略されないためもあって日本との友好関係を築いていました。

この渤海使が来たときのために、日本は国内に宿泊施設を作りました。新羅使は普通に太宰府を使ったけど、渤海使は距離的にも、新羅との関係的にも能登半島とか福井県くらいに来たほうが便利だったから。

能登に作ったのを能登客院、越前(今の福井)に作ったのを松原客院、そして都に作ったのを鴻臚館(こうろかん)と言います。ちなみに、鴻臚館は貿易の要所のことを全てこう呼んだので、福岡とかにもありました。

以上が奈良・平安時代の外交についてです。ま、そんなに覚えなきゃいけないことはないですね。次の平安時代に進んでしまいましょう!

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