鎌倉時代①〜初代執権北条時政と他氏排斥の話

鎌倉時代の政治の話に入ります。幕府ができてから初代執権である北条時政がしたことをまとめます。最初にまず幕府で頼朝が何をしてどうなったかということから話します。

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北条時政の時期の主な出来事

〈1199〉頼朝、没→13人の合議制開始
〈1200〉梶原景時の乱
〈1203〉比企能員の乱
〈1204〉源頼家殺害
〈1205〉畠山重忠の乱
〈1205〉時政、引退

鎌倉幕府の本質と頼朝の死

1199年、鎌倉幕府を、というか武士政権を作った源頼朝が亡くなります。死因は落馬です。よっぽど変なところに頭を打ってしまったんでしょう。ついてなかったんですね、お疲れ様でした。

いやいや、「は?」って話でしょ。武士が落馬で死ぬ、もちろんありえない話ではないけれど、まずは「は?」って思うのが普通だと思うんです。このことについて、当時の状況をまとめます。

幕府ができてから頼朝が何をしてたのか、これはあまり習いません。実は、幕府を作るという大仕事が終わり、余裕が生まれて考える時間ができたことで、頼朝は改めて「武士」というケガレた存在に悩み始めます。

たしかに武士が認められる社会を作ることは大切なことだった。でも、それと武士がケガレた存在であること、そしてその武士が天皇と同レベルで政治を行うことは完全に別問題じゃんと思ったのです。

そして頼朝はやらかしてしまいます。娘を天皇に嫁がせることを企てたのです。天皇家と親戚関係になる、平清盛が武士の信頼を失ったアレですよ。そして頼朝自身も京都に通い始めました。

そのタイミングで頼朝は亡くなります。落馬で。もちろん本当のことは分からないけれど、「何を勘違いしてるんだ?」といって葬られた感が強いでしょ。

ちなみに、頼朝の命日は鎌倉時代の公式な歴史書である吾妻鏡にすら載っていないんです。ミステリー。

「みんなで政治」の始まり

頼朝が亡くなったことで、息子の源頼家が将軍になります。ただ、苦労を味わってきた頼朝と違い、頼家はボンボン息子として育ってきてしまいました。だから自分はエラいと勘違いしてるし、武家政権の本質を全く理解していなかったのです。

そして御家人としての強さに関係なく、ただ自分が仲がいいという理由だけで大事にする部下を決めていきました。コイツはダメだと思い、有力御家人たちは頼家から独裁権を剥奪、自分たちで話し合って決めるやり方に代えます。

これを十三人の合議制と言いました。ただし、これもすぐに崩壊します。北条時政がメンバーをちょっとずつ削っていったからです。

梶原景時の乱

十三人の合議制が始まったとき、この人は頼朝とも大の仲良し関係にあったひとで、この時期も頼家に味方することばかりしていました。したがってみんなにとってとにかくダルい存在だったのです。

そこで、「梶原景時が謀反を起こそうとしている」という話をみんなででっち上げ、滅ぼします。これを梶原景時の乱と言いました。サインは66名分。完全な集団イジメだね。【鎌倉時代の他氏排斥事件①】として覚えておきましょう。

比企能員の乱

続いては比企能員(ひきよしかず)という人が滅ぼされます。事件名はそのまま比企能員の乱です。こちらは本人がウザいというよりは、そのままにしておいたら権力を持っていかれるという危機感を北条時政が持ったことが原因でした。

というのも、頼朝を育てた乳母が比企氏の女性だったんです。頼家はずっと比企氏といい関係を保ち、奥さんもそこからもらいました。つまり、今後比企氏が外祖父のような立場となって権力を握る可能性が非常に高くなっていたのです。

鎌倉幕府は、そもそも流人で4、5人くらいしか仲間がいない状況だった頼朝を北条時政が見つけ、一族の運命をかけるというものすごい決断からスタートしたものでした。だから源氏の次に北条氏が強くあるべきというプライドがあったのです。

ということで、これが【他氏排斥事件②】となります。先ほどの梶原景時の乱はみんなでやった感が強かったけれど、ここからは北条氏がどんどん出てきます。だからもう北条氏による他氏排斥と思っていてくれて問題ありません。

3代将軍実朝就任

ここまでで鎌倉にいる武士、特に北条時政にとって頼家がバカで邪魔な存在だと分かったと思います。そこで時政は頼家を伊豆の修善寺に幽閉してしまいます。頼家には弟がいたので、そっちに代えてしまえばよかったのです。

これが鎌倉幕府3代将軍源実朝です。かなりおっとりした性格ではあったけど、勘違いヤローの兄貴とは違って、変なプライトなども持っていませんでした。将軍が代わったことが確認されると、頼家はそのまま修善寺で殺されてしまうんです。

ちなみにこのとき時政は、将軍交代の混乱に乗じて政所別当になっています。政治運営権を手に入れ、これを以って一応初代執権就任となります。

畠山重忠の乱と時政の最期

北条時政による他氏排斥事件が続きます。続いては畠山重忠の乱です。はたけやましげただと読みます。この事件を理解するには、背景知識として時政が人生の後半でとち狂うことを知っておかなきゃいけない。

時政には、頼朝の妻で頼家と実朝の母である政子(まさこ)、次の執権となる義時、初代連署となる時房(ときふさ)などの子どもがいました。ただ、かなりあとの方で年の離れた後妻をGetしました。牧の方(まきのかた)と言います。

2人には娘が生まれ、その子はやがて平賀朝雅(ひらがともまさ)というなかなかの実力者と結婚をします。この男が畠山重忠と支配地域が重なってしまっており、そういう意味で対立していたのです。

時政はこの牧の方も、娘婿である平賀朝雅もかなり溺愛していたため、重忠を滅ぼしたのでした。3つの排斥事件はどれも有力御家人を滅ぼした話だけど、こんなふうに微妙に理由が違うのが特徴です。

ただ、娘婿と仲が悪かったから滅ぼしましたって、ちょっとやりすぎだと思わないかな?このころの時政はもうちょっと狂ってました。そして終いにはこの平賀朝雅を次の将軍にしようということまで考えるのです。

これはさすがに「バカか親父」ということで、息子の義時によって止められます。これまで積み上げてきた権力も、この一件によってガタガタと崩れてしまい、結局このまま時政は引退しました。

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