鎌倉時代②〜北条義時の和田合戦から承久の乱の話

鎌倉時代の政治、2回目は2代執権北条義時の話です。

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北条義時執権時の主な出来事

1213和田合戦
〈1219〉源実朝暗殺@鶴岡八幡宮
1221承久の乱

和田合戦

梶原・比企・畠山の3氏を滅ぼした北条氏。この時点で他に自分たちの地位を脅かす可能性があるのは、三浦氏と、その一派である和田氏くらいなものでした。もちろん和田氏のトップは初代侍所別当の義盛です。

とにかくこの2氏を滅ぼしたい。でも何の理由もなく攻めることはできません。そんなことをしたらただの殺人犯。「アイツが悪いことをしようとしたから、僕がこらしめました」にしなければいけないんです。

そんなときに、うまく和田氏がボロを出してくれます。義盛の息子たちが頼家の子である一幡(いちまん)を将軍にしようと企てたのです。理由はどうであれ、今は実朝が将軍。したがって、この息子たちがやろうとしたことは反乱です。

当然、義盛の息子は逮捕されました。義盛はなんとか許してほしいと一家総出(←90人位)で頼み込みにいきます。ただ、息子はギリ許されたものの、一緒になってやっていた甥は認められず、みんなの前で磔(はりつけ)にされました。

これは和田氏にとってかなりの屈辱。しかも、幕府はその甥の土地を勝手に人にあげてしまうという嫌がらせを続けました。そしてついに和田義盛がキレたのです。こうして起こった戦争を和田合戦と言います。1213年のことでした。

ただ、さすがに一族だけで幕府に勝つことはできません。和田義盛は敗死。一族も滅び、親である三浦氏の力もだいぶ下がりました。これを期に北条義時は政所の他、侍所別当も兼任するようになり、ほぼ権力を手に入れきったのでした。

ちなみに、この和田氏の墓は和田塚と呼ばれており、江ノ電の駅名にもなっています。駅から10歩で着く無心庵というあんみつ屋があり、前に行ったときに線路をわたって入る感じがとても楽しかったです。

こんな感じ→http://by-s.me/article/71087804299810519

源実朝暗殺

和田合戦が終わると、今度はは3代将軍源実朝が暗殺されてしまいました。甥の公暁(くぎょう、一幡の弟)が、鶴岡八幡宮にある大銀杏(2010年、雪でたおれた)の裏に隠れ、実朝が来た瞬間に切りつけたと教科書には書いてあります。

もちろん、親父が殺され、自分たちがエラくなれなかった恨みという説明はよく分かります。ただ、これも本当は武士の大半の同意を得て、実朝は消されたと考えるほうが妥当だと思います。

というのも、実朝はバカでプライドだけは高い頼家と違い、小さい頃からユルい感じの子で、貴族の文化を愛してました。その結果、文化史のところで触れるけれど、すごい和歌集を作り上げています。

そして後鳥羽上皇とも仲良くなり、ついには右大臣の位もプレゼントされたのです。実朝が殺されたこの日は、鶴岡八幡宮にてこの右大臣就任パーティーが行われていました。

ただ、後鳥羽上皇は実朝がお気に入りだったからそうしたわけではありません。純粋に喜んでいる実朝の裏で、上皇が将軍に位を与えるという「上下関係」を改めて作り直したのです。

実朝以外の武士も、もちろんこのことの重大さに気づいていました。そしてこれは実朝が本当に右大臣として振る舞う前に消さないと、また武士の社会が危なくなると考えたのです。

暗殺のとき、公暁は顔が見えなかったのに「俺は公暁だ!」と大声で言ったそう。つまり、本当に公暁なのかは分からない。そして、当日実朝の横にいるはずだった義時は、式典直前にお腹が痛いと言って欠席しているのです。

そうなると、実朝は多数の武士の同意を得て、誰かによって殺され、そしてその罪が公暁になすりつけられたと考えることもできるし、むしろその方が鎌倉幕府の誕生や他氏排斥事件と合わせて一貫したストーリーになると思うのです。

承久の乱

北条義時の締めくくりは承久の乱(じょうきゅうのらん)です。上皇vs幕府のガチ戦争。結果的には幕府が圧勝し、もう朝廷からイチャモンをつけられることのない、完全な力を武士が手に入れた事件となりました。

承久の乱の背景

この時期、もちろん全国に鎌倉幕府を支持する武士がいたものの、ざっくり言うならば日本の東半分は北条義時率いる幕府が、西半分は後鳥羽上皇が支配していました。この1つの国の中で2つの支配がある状態を公武二元支配体制と言います。

源実朝が暗殺されて1番怒ったのが後鳥羽上皇でした。自分の財源である八条女院領や長講堂領がどんどん地頭に踏み込まれてきている。そこで実朝を使って再び幕府を支配下に置く準備を進めていたからです。

実朝がみんなによって消された今、もう武力で解決するしか方法はありませんでした。しかも、自分のお気に入りの女の子にも「(援交相手的な意味で)パパ、私のお金守って!」と言われ、動かざるを得なくなっていました。

承久の乱の経過

1.軍隊の整備

そこでまず、後鳥羽上皇は武力を作ることを始めます。これが院政のところで話した西面の武士です。桓武天皇が軍隊を無くして以降、初めてきちんとした軍隊の整備を行ったのです。

いくら武士の社会を欲していても、天皇や上皇を倒してというのは罰当たりになる気がする。そういった思いを持った人は少なくない。後鳥羽上皇は少数精鋭の部隊を作り上げます。

2.地頭撤退命令

そして義時に長江・倉橋荘(ながえ・くらはしのしょう)から地頭を撤退させろと命令します。この土地がそのお気に入りの女の子の土地です。もちろん義時は拒否をします。

そもそも撤退させる気がないし、ここで撤退してはそれこそ上皇の命令に従うという上下関係ができてしまうからです。後鳥羽上皇だってそこらへんの返答は分かっています。

3.義時追討の院宣

この返答を受けて、今度は義時追討の院宣を出します。これはなかなかうまいやり方でした。というのもこれは命令の名前の通り、義時だけを狙ったもので、鎌倉幕府を倒せという命令ではないからです。

悪いのは義時だけで、武士全体を否定しているわけではない。こういう言い方をすることで、先ほど言った「やはり天皇は別枠でしょ」と思ってちょっと現状に後ろめたさを持っている武士たちの心をつかむことができたからです。

4.戦闘開始

こうして実際の戦闘が始まります。幕府は義時の息子北条泰時を大将に、補佐として自分の弟(=泰時の叔父)の北条時房をつけて派遣しました。ただ、上皇側についた武士もたくさんいました。

ここで頼朝の奥さん、北条政子が頑張ります。ちょっと浮気しかけてる武士に対して大演説をするのです。しかもウマいのが、上皇を批判するんじゃなくて、それに従った武士を潰せって言っていること。ざっくり言うと以下のような感じです。

「頼朝が生きやすい社会を作ってくれたよね。その恩は山よりも高く、海よりも深いじゃん。でも、今その恩を裏切って上皇をだますことで私たちを滅ぼそうとしてるやつがいるよ。ここはみんなで力を合わせて傷めつけなきゃダメじゃない?」

これによって武士のテンションが急上昇し、1ヶ月後には京都に20万人の武士が集まりました。人数のイメージが分からなければ、99年にGlayが幕張で行ったライブ映像を見てみましょう。

承久の乱の結果

この人数をもって、幕府側が圧勝します。幕府が朝廷に初めて反抗した事件でしたが、見事に勝ち、幕府の支配力が全国に広がりました。具体的な結果として4つのことを押さえましょう。

3上皇の配流

まずは3人の上皇を配流したことです。後鳥羽上皇隠岐(おき)に、子の土御門上皇(つちみかど)を土佐に、順徳上皇(じゅんとく)を佐渡に送ってしまいました。隠岐は島根県の離島です。

なぜ3人もいるのか。後鳥羽上皇は息子と一緒に戦おうと思っていました。そのため、土御門を自由に動きやすい上皇にします。ただ、土御門は温厚な人物で、戦う気がありませんでした。そこで弟で血の気が多い順徳も上皇にしたのです。

3人の配流先、これを絶対に混同させないでください。隠岐はあとでまた流される天皇が現れるのであまり心配はいりません。なので、土御門と土佐が両方共「土」がつき、順徳と佐渡が残ると思っておくのがいいのではないかと思います。

また、このとき天皇も代わっています。仲恭天皇(ちゅうきょう)が後堀河天皇に譲位しました。

六波羅探題設置

京都には朝廷を監視する京都守護という役職がありました。ただ、これは全国に配置された守護のちょっとだけ大きい版みたいなもの。これをもう少ししっかりした機関に作り変えます。それを六波羅探題(ろくはらたんだい)と言いました。

このトップになったのが、この乱で活躍した北条泰時北条時房の2人です。六波羅という地名は平清盛のときにも出てきました。

地頭を増員

承久の乱によって支配が一気に広がりました。これにともなって土地の管理を行う地頭も大量に必要になってきます。なので、結果の3つ目は地頭を増やしたことです。

この承久の乱後に新たに増えた地頭を新補地頭(しんぽじとう)と言いました。この人たちには新補率法というルールにしたがって給料が払われます。具体的には以下の3種類を押さえましょう。

反別5升の加徴米(たんべつ5しょうのかちょうまい)
11町につき1町の免田:10個あったら1つ税免除の権利
山川からの収益の半分

ここまで読んだ人は、「え、じゃあ昔からいる地頭は?」という疑問が当然わくでしょう。この新補地頭の誕生により、それまでの地頭は本補地頭と呼ばれるようになりました。本補率法にしたがって反別5升の兵糧米が支払われました。

反別5升というのは、田んぼ1反につき5升分という意味です。1反は300坪、畳600枚分。1升はお米10合分で、だいたい1.5キロです。あと、加徴米と兵糧米はもらう名目が違うだけで、とにかく米で税金をもらうよと言っているのです。

太田文の作成

承久の乱の結果、最期は太田文(おおたぶみ)を作成したことです。もともと税金を集めるというのは国司が行っていたものでした。そのときに正確に集めるために、各田んぼのデータ等が細かく載ったノートがあります。

こういった目的のものは土地台帳と呼ばれ、今でも普通に存在しています。この国司が持っているものを幕府も作ろうと考えました。この鎌倉幕府が作った土地台帳のことを太田文と言ったのです。

作成のプロである国司にお願いしたりすることもあったので、用語集とかではちょっと分かりづらい説明になっています。とにかく土地がどのくらいの広さで、どれくらいいい土地なのかみたいなのがメモってあるものと理解しよう。

 

以上が2代将軍義時の時代についてでした。だいぶ長くなったけれど、北条氏が足元を固め、そして全国を支配するようになるというとても大事な時期です。

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